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Aセクが読んだ「非・絶滅男女図鑑」

合コンに行って、いろんなタイプの男女を見てしまった。合コンなんて興味本位で2,3回しか行ってないのに、そんな気持ちになる本だ。

"非・絶滅男女図鑑 男はホントに話を聞かないし、女も頑固に地図は読まない (集英社…"(鈴木涼美 著)https://a.co/4fnIii1

・ハッとさせられた一文

ここには著者が今まであってきた様々なタイプの男女が登場する。

ここに集めたのは、それぞれに高慢と偏見と罪と罰のある男や女のお話で、彼ら彼女らは別に正しくもなければ賢くもないけれど、異性愛の世界でなけなしの自尊心を抱えながら、満足と不満を繰り返し、幸福という漠然としたアイデアをこねくり回している。

冒頭に以上のような記述があるようにヘテロ(異性愛)の男もしくは女の話ではあるのだが、Aセクシュアルを自称する私、れいすいきも人間の本質を言い当てているような表現にハッとさせられた。

例えばこの一文。

結局、「あなたにとって私は何」の答えをしっかりした漢字ふた文字で欲しがる女というのは、彼にどう思われているのかが不安なふりをして、実は赤の他人からの評価が欲しいのだ。

これは肩書きにこだわる女性の心理を言っているようで、男性含め多くの人に当てはまると思うのだが、どうだろうか。

例えば、今でこそ性自認が性別は男性のAセクシュアルだと思っている自分も彼女がいないと遅れた、もしくは落ちぶれた存在なのではないかと思った時期が20歳前後にある。いや、もしかしたら今も心のどこかで思っているのかもしれない。本書の記述に則していえば、“幸福という漠然としたアイデアをこねくり回して“、彼女がいる状態なのではないかと男子大学生は定義してみたのだ。

結局その時、身の回りの女性を思い浮かべて彼女という言葉を結びつけてみた。すると、付き合った先に想像のデートも理想の人生の歩みも思い浮かばなかった。自分の想像力の欠如にこう気づく。
その人と付き合いたいんじゃなく、付き合っている(=彼女持ち)という肩書きが欲しいだけ、だと。
そんな自分の肩書きのために利用される相手はたまったものじゃないだろうし、そんな考えを持つ自分にも吐き気がして、以降Aロマンティックスペクトラムを自認(自任?)するようになった。決意を固めてそうしたというより、そう考えてから5年以上経っているが、今までアロマンティックであるという自己決定が変わっていない。という方が正しい。

・「ざんねんなにんげん図鑑」

本の話に戻ろう。鈴木涼美さんは元AV嬢で、日経記者をされて、今は文筆業として活躍をされている。これまでの経験を交えて登場する男女に怒りの感情をぶつけながら、どこかに人間愛を感じさせる。さながら本書は著者の経験によって収集(収拾?)された「ざんねんなにんげん図鑑」だ。
ある章では、代理店系メンタリティ男の"ざんねん"な部分に言及した後(詳細は本書をお読みください)、怒りの発露をこう表現する。

スーツの背中にセミの幼虫とか入れたくなる

ざんねんな彼もまた今までの人生の登場人物であり、いなくなって欲しいでも大嫌いでもなく、ちょっとした嫌がらせをしたくなる"にんげん"なのだ。
この本を読んでいくと、その人を否定しない。そんな男を好きになる女がいる、著者がそんな男を好きになっていた。と、はたから見ると救われないような話が点在する。救われないから本書の題名通り「非・絶滅男女」なのだろう。読み終わったあと、もう一度冒頭を読むと、最初は深く理解せずに読んでいた総論が実体(験)を持って理解させられる。

(了)

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