見出し画像

誰かのせいにしたがっているんだ

アニメを見るのが趣味になったのは今から10年前くらいからだろうか。
当時、高校生だった自分は、なかば友達と会話をあわせるためにアニメを見ていた。
だから、ストーリーを深く考察するなんてことはなく、このキャラが好きとかこのセリフ、場面が良いとかそういう見方をしていたような気がする。
今思うとそれぞれの作品に描かれる感情の複雑な揺れ動きだったり、言葉の真意だったり、作品全体のメッセージにまで考えは至らず、ただ単に映像を楽しんでいた。

会話を合わせるため見ていたものだから、小学生の時にみんなが見ていたエンタの神様やNARUTOみたいに流行りについていこうくらいの気持ちで、何かその関連グッズや円盤を買うという選択肢すらも思い至っていなかった。つまり心の底から手に入れたいと思う作品には出会っていなかった。

以降、ずっとお金を出さずにアニメコンテンツを楽しむことが続いた。ただ、ひとつだけ手元に唯一買った円盤があることを最近思い出した。
それは今でも自分の部屋にあって、大掃除をする度に居場所を移しながら、居候を続けている。

・『ここさけ』を見たくなっていたんだ


『心が叫びたがってるんだ』

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』のスタッフが作ったオリジナル劇場アニメ。別に声優のイベント先行優先抽選申込券がついてくる訳でも、特典映像が目当てでもない(ちなみに特典映像は舞台挨拶&公開前特番&乃木坂46の聖地巡礼だった)。
手元に残しておきたいと思って、買ったのは間違いない。でも、なんで買ったんだっけ?理由がわからないまま、7年ほどの月日を自分の部屋で過ごしてきた。

その存在を思い出したのは、心がどこかに行って見つからない、そんな感覚になっている時だった。
思い出すように、あのタイトルが思い浮かぶ。

『心が叫びたがってるんだ』

あれ?どこにあったっけ?
入れたと思っていたダンボール箱の中にない。探していくと、床に平積みされた本たちの下に隠れていた。

ディスクを取り出し、再生ボタンを押すと一度見たストーリーが蘇る。以下少し駆け足で、物語のあらましを振り返ってみる。

・ストーリー解説(注:ネタバレあり)

以下、重大なネタバレを含みます。

本作は言ってしまえば青春群像劇だ。
主人公の女の子・成瀬順(CV:水瀬いのり)が父親の不倫の現場を目撃、そのことを母親に伝え、両親が離婚。自分の「おしゃべり」を悔やみ、恨み、ついには封じてしまう。
玉子の妖精によって、口をチャックされたのだ。そうして、何かを言葉に出そうとすると腹痛に襲われる、"しゃべれない"子ができあがる。

高校生になった順は、地域のイベントにおいてクラスでミュージカルをやることになり、同じ実行委員の坂上拓実(CV:内山昂輝)と出会う。ピアノが弾ける彼によって、歌であれば言葉を発することができることを発見し、自分のことを肯定してくれる拓実のことを王子様のように思う。

だが、拓実には別に好きな女の子がいて、その事を知り、順はショックを受ける。
と、ここまで読んだ人は、なんだただの恋愛モノですか、と思われるかもしれないが、少し待って欲しい。

物語の終盤、ショックを受けた順は失踪。拓実がミュージカルの舞台へとあげるため、順を探し出しすも説得虚しく、「もう歌えない。私の王子様はもういないから」と泣き叫びながら拒絶される。

そこで拓実から発せられたのが「(呪いをかけた)玉子なんていないだろう!」という順の世界の全否定だった。

順「いないと困るの!舞台もメチャクチャにして、家族もメチャクチャにして。私のおしゃべりのせいじゃなかったら、何の!何のせいにすればいいの!どうすればいいのよ」

画像1

「もう全部燃えちゃえばいい。おしゃべりのせいにしなきゃ、どうしたらいいかわからない」と自暴自棄になる順に対し、その言葉を聞かせてくれと伝える拓実。「言葉は誰かを傷つける」とそれを拒否する順。傷つけていいから聞かせてくれ、と懇願する拓実に思いつく限りの悪口を叫ぶ順。

悪口をしっかり受け止めた拓実は、自分がしゃべれるのに、本当に伝えたいことを隠して生きてきたこと、そして本音を抱きながらしゃべれなかった順を見てそれに気づけた、と感謝を伝える。

「お前の言葉で嬉しくなった」

玉子にかけられた「お前の言葉で人は傷つく」という呪いはこれで解かれる。ミュージカルのラストから舞台に立てた順は、こう振り返る。

画像2

「呪いをかけたのは私、玉子は私。1人で玉子に閉じこもってた私自身」

以上。

・『ここさけ』を7年ぶりに見て思ったこと

この作品を見て、考えさせられる。

人を傷つけたくない、と
自分は傷つきたくないは、
ほぼ同義なのではないか、と。

なぜなら、人が存在すれば、何かしら傷つく/傷つけられる可能性は存在しているから。

究極言えば、存在が無にならなければ人を傷つけない状況は存在しえない。

例えば今、自分の左肩を右手で叩いてみると、どちらにも一時的な痛みは発生する。それは他人との関わりも同様だ。電車で、路上で、職場で、人と触れ合い、それが何かしらの痛みを伴う可能性はある。
同じように言葉を交わえれば、何かしらの変化を互いにもたらしているはずだ。
感情に変化が起き、考え方にも変化が起きるかもしれない。それがどちらかにとって痛みとなることは本来不可避なのだと思う。

だから時に人は、自分の外に理由を求める方向に考えが向いてしまいがちだ。少なくとも自分はそういう傾向がある。
あの人のせいだ、あの団体のせいだ、あの人種のせいだ...
誰かのせいにしないとやってられないのだ。だからこそ、愚痴は発生するし、陰謀論が信じられ、ヘイトスピーチも起きる。

ただ、指弾する一方で、声を上げる自分自身は傷つきたくない。そんな自分がいるのも事実だろう。それは責任逃れという意味ではない。先程言った"誰かのせい"は、いじめやハラスメントの被害と言えるものかもしれないのだ。
ただ、どちらにしても、誰かのせいに、何かのせいにすることで自分への反省を一瞬回避できる側面がある。
少なくとも自分は人を傷つけはしない。そんな断言ができないことを改めてこの作品を通して実感する。

・傷つきたくない、傷つけたくない

成瀬順の場合は、誰かを傷つけたくないという優しさの裏に傷つけた自分の存在を認めたくないという思いがあった。だから自分に呪いをかけ、本当の自分が傷つかないように殻を作った。
というか、誰かのせいにすると、その瞬間は楽だ。なぜなら自分をそれ以上問いつめる必要はないから。
でも、結局問いは自分に帰ってくる。例えばその誰かがいなくなったら、その団体のせいではないと気づいたら、本作でいえば玉子がなくなったら...

他人を傷付けもするが、他人を嬉しくもさせるかもしれない。

それが本作の言葉の答えだったように感じた。
たしかに人を傷つけることは起こりうる。生きていく中で避けられない。でも同時に人との関わりは、傷つけ、傷つくことだけを意味しない。喜ばせたり、嬉しい気持ちになったり、多様だ。自分のせいで傷つけた、だけでなく、自分のおかげで嬉しい思いをさせた、にもなりうる。

たしかに傷つくことのほうが多いかもしれない。だからといって心まで閉ざしてしまっては、その先の喜びも、楽しみも、嬉しさも訪れない。
だからこそ傷ついてもいいから、傷つけてもいいから、心を叫ばせよう。
そんなメッセージがあれやこれやで悩む自分に響いた。

・受け取った勇気、自身、そして意味。

具体的にいえばこの作品によって、
前を向く勇気を与えられた、
行動する自信を与えられた、
自分の心を大切にする意味を与えられた。

ちなみに本作ではその後、順も殻を破って、拓実に告白するが、フラれてしまう。
恋愛、結婚わかりませーんな自分からすると、ピンと来ないが、これも傷つく場面なのだろう。
しかし順はそれを乗り越え、ミュージカルの舞台に立つ。もう傷ついても、王子様がいなくても自分で歩き出せるようになっていた。

画像3

ミュージカルのラストは同時合唱。それぞれが歌う歌詞に経験や今の思いが現れている。

こんなシンデレラ的なハッピーエンドにならないところも含めてこの作品が好きだ。そして当時は感じ取っていなかったであろう、傷つく/傷つけるの意味合いを深く考えされられた。
この作品を円盤として買って手元に残してくれていた7年前の自分には感謝しかない。その当時の自分は今の自分がこうやって見るなんて予想だにしてなかっただろうけど。

いや、もしかしたら、いつか傷つく自分の心を予感して準備してくれていたのかな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?