祖母のこと

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2022/03/12 一部修正
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私の祖母は、「強烈な人」である。

昭和一桁生まれ。私が学校で習った近代史も彼女には鮮やかな思い出だ。九十を超えた現在施設で暮らしているが、頭はしっかりとして食欲も旺盛。年齢なりに弱ってはいるものの、白髪はほとんどなく、同年代と比べると明らかに若く見える。検査で医者から危険視される数値を叩き出してもケロッとしている生命力はいっそ怖いほどで、本人は「いつお迎えが来ても良い」などと言っているが、その気配は一切ない。おそらく、あの世の皆さんも気圧されているのだと思う。

おしゃべりで、誰に対してもあることないこと余計なこと全部喋る。三世帯同居をしていた頃、さほど親しくない近所の人に「自慢のお孫さんなのね」と声を掛けられた時はその場で穴を掘ろうかと思った。家庭内情報の流出が発覚する度に家族で怒っていたが、改善の兆しはなくそのうち皆諦めた。
更に、数年前に体調を崩すまで毎日外出していた。朝早くに家を出て、帰ってくるのは夜。嬉しいことがあると飛び跳ねて喜び、落ち着きのなさを家族に窘められるほどだった。

とにかく、勢いが良すぎる。例えるなら動きを止めると死ぬマグロか、はたまた一直線に走る猪か。今はだいぶ落ち着いたが、それでも走り出したら誰にも止められない、良くも悪くも家族の中で一番若い、まさに暴走列車のような人だ。
その強烈さ故、人間関係に支障を来したことも少なくない。人を虐めたり貶めたりということはなく、孫の私には優しくて良いおばあちゃんだが、家族としては少々言動に困ることもある。

強烈エピソードに事欠かない祖母であるが、その人生もまた、一風変わっている。

兄弟は男女含め6人。正月に家族そろってタクシーで出かけたとか、学生時代に病気をした際は人力車で学校に通ったとか、いわゆる「お嬢様」だった。戦争が始まると、当時の例に漏れず青春時代を軍需工場で過ごす。勤めていた工場が爆撃を受けた日、たまたま体調を崩して休んでいたために難を逃れたこともあった。
成績優秀だった祖母は、当時としては珍しく大学を出ている。更に、20代半ばにはアメリカへ留学した。女性に参政権が与えられて10年も経たない頃である。祖母の父、つまり私の曽祖父は「なぜ息子ではなく娘を行かせるのか」と親戚中から反対されたらしい。
女性の大学進学さえ珍しかった時代。いくら優秀とはいえ、結婚適齢期をむしろ過ぎている娘を留学に行かせるとは、曽祖父もなかなか先進的な人だったと言えよう。

飛行機が今ほど一般的ではなかったため、アメリカへは船で向かった。大西洋上、甲板から見た海が「黒々としていてとても怖かった」とよく話していた。
アメリカではホームスティ先に食洗機があり、祖母は驚いたらしい。こんな国と戦争して勝てるわけがない、と思ったという。
留学中、人種差別も祖母は経験した。本人が対象になる場合もあったが、「外側」も同じく経験している。ある時、映画館で座ったところ「そこに座ってはいけない」と言われ、何のことかと思えば「黒人専用席」だった。

現地の高校のサマースクールに通い、祖母は留学生活を謳歌した。
ところが突然身体を壊し、半年ほどで帰国することになる。帰りはハワイ経由の飛行機だった。
祖母はこの経験を「挫折」と呼んでいる。
本人としてはアメリカで骨を埋めるつもりだったから、努力でどうにもならないことで夢を絶たれた気持ちは察するに余りある。
彼女が日本に帰ってこなければ私は存在しない。けれど、もし祖母が健康なままだったら。自分が存在しない可能性を承知の上で、つい想像してしまう。

帰国後、祖母は就職した。結婚し、子どもを産み育て、親戚のいざこざに巻き込まれながら、教師として定年まで勤め上げる。
女性として求められる役割を果たし、キャリアも保つ。男女雇用機会均等法の影も形もない頃、それがどんなに困難だったか、想像はできても実感を得ることはできない。
話を聞く限り、祖母は仕事と家庭の両立をうまくできてはいなかった。どちらかと言えば仕事を優先し、そのせいで娘である私の母は寂しい思いをした。
そのことをとやかくいう立場に私はない。ただ、女性が自分の力で生きていくことが今よりはるかに難しかった時代、祖母の生き方は一つの在り方として興味深い。

今の祖母からこの波乱万丈な人生模様を読み取ることは難しい。留学時代に「こっちで育ったのか」と聞かれるほど流暢だったという英語も、今は全くだ。
それでも、祖母の激しいまでの力強さに触れる度、彼女が確かに生きた人生はふらりと姿を現すのである。

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