ずっと気になっていた過去のもの
ここまで長く生きていると過去のものが多くなって当然なのですが、
過去のもの=思い出のものだと後回しになりがちです。
・赤ちゃんの頃からの自分のアルバム
・卒業証書
・卒業アルバム
・資格証明書
もう見ることは無くなっていても、親が整理しておいてくれたアルバムは引越してもずっとダンボールに入れたまま一緒に引っ越ししてきましたし、卒業アルバムもそのダンボールの中。卒業証書も筒のまま一緒に移動してきました。
いつ開けたか?なんて覚えていないほどダンボール達は開けたことがなく、卒業アルバムもここ数年見返したことはなく、アルバムも然り。
娘世代ならまだフィルムとデータとの時代を生きているので、古いフィルムの写真をスキャナーで取り込んでムービーとして結婚式に流すということもこれからあるでしょう。
しかし、そういう時も「娘と一緒に写っている母」としての私の写真は必要であったとしても、幼少期の私の写真にもう出番はありません。
そうは思っていても、「亡き父がせっかく整理してくれたものだから」と理由をつけて先送りしていました。
ある日、少し私より上の世代の友人が身内に不幸が重なり、その度に葬儀プラス数日の日数を割いて故郷へ出向き、「遺品整理」や「後片付け」をしたという話を聞いたのです。
友人曰く、大抵のものは「捨てる」ことで終わるのですが、「写真」だけはたとえ親や兄弟とはいえ、自分以外の人の思い出の写真を捨てるのは嫌だったと言うのです。その友人はその後、自分で自身の古い写真を処分したのだそうです。
「息子や嫁に処分してもらってそんな思いさせたくないでしょ?」
私は「はっ!」としました。
「そうか。そういう見方もあるよね。」
実際にその後、病気が発覚し、写真達の処分に取り掛かることができたのは数年後になる訳ですが、その時の友人の言葉は「ミニマリスト」や「ミニマリズム」という言葉を知る前の私にはとても大きなきっかけになり、終活はまだしていなかったものの身軽な生活に意識を向けるきっかけになりました。
徐々にモノを見直し、自分が把握しやすく掃除しやすくどこに何があるか一目瞭然の生活にしていったわけですが、今使っているものだけを残し、「これから使うかもしれないもの」も一旦手放し(大抵の場合、使うことはありません)
「過去のもの」は「どうしても残したいもの」は携帯のメモ機能でスキャンして残し、あとはほぼ処分しましたが今までに困ったことはありません。
私のこういう生き方について
「どうして今からそんなことをしているのですか?」と質問して来られた同じ年の方がいらっしゃったので、「あなたならどうやって処分しますか?」と逆に質問したことがあります。
その方も親族とは離れて一人暮らしだそうですが、「その時は残った親族がやってくれるでしょう」と答えられました。
考え方は人それぞれ。
「そうなんですね」
私はそう答えたきり、次の話題に移りました。
アドバイスを求められたわけでもなく、批判されたわけでもないのでそこまでです。
たまたま私は年齢的にも親世代がそろそろという年齢になってきているので、自分も身軽に暮らしたいと思っていますが、こういうライフスタイルも発信はしているものの周りに考え方を押し付けるつもりはなく、たとえ実家が散らかっていようがそこは家族とはいえ「自分以外の人のもの」には頼まれて片付けたりする以外は手をつけませんし、捨てる時も聞いてから捨てることにしています。
そういう私も娘の子供の頃の写真数枚と、小さい時に描いてくれた「母の日のカーネーション」の鉛筆描き(メモ程度の大きさ)はまだあります。
全てドライに捨てるというわけではなく、これらの物はあらゆる選択を潜り抜けて残った大事なものだからです。年に何回かは見返すものなら捨てる必要はないのです。