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メトロポリス漬けの湯 | diary 2024-06-10

矢口高雄「ボクの手塚治虫」
りんたろう監督「メトロポリス」
手塚治虫「メトロポリス」
を読み、観て、読む。

矢口高雄「ボクの手塚治虫」

ここで一番の感銘を受け、故に後続を観て、読む。
手塚治虫「メトロポリス」に出会った幼き日の矢口高雄少年、そのときめきと農村の暮らしのコントラスト。

あらすじを紹介するだ!

と言って、矢口先生の絵で克明にメトロポリスのストーリーが描かれる。
文章だけど私も書くぞ。


陰謀団の手により人為的に太陽の黒点が増やされた。その放射線の影響で人造細胞の開発が成功、それに目をつけた陰謀団の首領の命で生まれた人造人間ミッチィは、産みの科学者の良心の咎から事故に紛れ脱出、人間の男の子として育てられながら、追手の目を気にする日々を過ごしていた。

学校へ行き始めると友人もでき、授業や街での人助けに、人造人間由来の跳躍力や頑健性を発揮し始める。それ故に悪の手に見つかり、性転換の機能(!)を使って一時は逃げ仰せるも最後は捕まってしまう。そして自分の出自、人造人間であることを、悪の奴隷として作られたことを首領から知らされる。

嘆き悲しみ、悪を、人間そのものを憎んだミッチィは、同じく人間に酷使されていたロボットとともに人間に宣戦布告をする。学校での一番の友人であるケン一は説得のため、高層ビルの上で対峙。肉弾の空中戦を挑む。

しかし、時を同じくして黒点を増やす陰謀団の装置が破壊されたことで…徐々に黒点は消えていく。その放射線の下でしか生きられないミッチィの人造細胞たちは死に絶えていく。ミッチィはそのまま、高層ビルから転落していく…


この、矢口先生の絵柄でリファインされたメトロポリスはぜひ見て欲しい。メトロポリスは手塚作品の中でも初期にあたり、ウォルトディズニーの影響色濃い簡素な絵柄であるから、そのブラッシュアップは劇的である。

そして矢口先生の描くミッチィ、特に人間への宣戦布告の後、メトロポリスを扇情的な女の子の姿で飛び回り、不敵に微笑むミッチィは実に魅力的であり…当時の矢口少年はこのマンガに夢中になると同時に、寝ても覚めてもミッチィ思い浮かべるほどに彼女(彼)に恋をするのだが、全く説得力がある。

時に糞尿に塗れ、母の農作業を手伝う健気な田舎の男の子が、両性具有の人造人間に恋をする。なんと倒錯的な世界だろう!矢口先生の描く人物の色気の源泉、この体験にあるに違いない。
これは金の玉虫先生も魚紳×三平本を出すというものだ!竿を握らしゃ日本一。いつか既刊電子化しないかな。

これに並行して、矢口少年の戦後の貧しくも逞しい農村での暮らしが描かれる。父親は大工で遠出が多かったぶん、母との交流が多く描かれるのだが、このお母さんがまた素敵なお母さんだ。アバーッ(秋田弁で母の意)!
ママショタを堪能せよ!そして熱中症に倒れる母、祖父の心無い蔑みに晒され、病み上がりをおして畑に出るシーン!厳しい農村の掟!鬼畜!ジジイコノヤロ!なんだか寝取られモノのような文脈も感じるね。

Kindleで安い。みんな読もう。

ということでメトロポリスの魅力は矢口先生の圧倒的画力のあらすじと端々のインモラルな描写でビンビンにレコメンドされたのでした。
故に、映像化と原作を観て読む。

りんたろう監督「メトロポリス」

原作と映像化がある場合に映像化から観よというのが私のセオリーなので、まずは映画から。調べると日本での興行は赤字で、ヒロインはティマという名の女性アンドロイドとなり性転換ギミックもオミットされている。りんたろう監督と大友克洋による換骨奪胎、再構築リイマジネーションという感じだ。日本でより海外で、特に著名な映像作家からは金字塔として評価されているようだ。

開始すぐにジャパニメーションという忘れ去られていた単語を思い出した。AKIRA、GHOST THE SHELL、あるいは幻魔大戦から連なり、おそらく時期的にはジャパニメーションというカテゴリで世界的に評価された最後の作品であったかもしれない。

映像表現はとにかく圧倒的だ。密度とシズル感。どうしても鉄雄が降りながら戦うお馴染みのあのエレベーター、アキラが冷凍されていた石棺的なドーム状構造物などが出てくるのも笑ってしまうのだが、しかし完全新規に構築された大友WORLD、大友造形の世界。それも広大で、上層、市井、スラム、下水まで実に緻密に丹精に描かれている。そこにディズニーアニメを意識したフレーム数とモーションで動きまわるのは、これまたディズニー色の強い時代の手塚の絵柄を元に生み出されたキャラクターたち。

残念ながらこのキャラクターに魅力がなかった。主人公ケンイチはいまいち声に覇気がなく、ヒロインをティマを思う気持ち、危険を犯し追いかけ救おうとする執着に説得力を持たせられていない。

ケンイチは声優初挑戦の、当時時の人であった年少のジャズボーカリストが演じているようだ。この起用故にか、作品中流れる劇伴もジャズ、ブルース調のものが多い。割とシリアスな、迫害に遭うロボットのシーンなどでも軽妙なジャズが流れる。これはこれで独特の雰囲気を作っており最初は悪くないと思えたが、だんだん鼻についてきてしまう。

ティマは顔の造形や髪の表現など悪くはないのだが、服装がずっと彼シャツとニッカーボッカーみたいな感じでダボっとしたまま、原作にあったような大胆な衣装チェンジの機会もなく終えてしまう。いや、衣装替えの機会はあるにも関わらず、すんでのところで逸するのだ。着替えてからでも良くない?まあ、彼シャツのおかげでクライマックスでの見事な風圧の表現などは為されるのだが。

ロックという原作にない立ち位置のキャラクターが、比較的魅力的であったと思う。メトロポリスの実権を握るレッド公に拾われ育てられ、腹心として置かれつつも、父と慕う気持ち、忠誠心は疎ましがられ、愛は向けられていない。そのコンプレックスゆえにレッド公が入れ揚げ、傀儡として玉座に据えようとするティマを執拗に狙い、最後にはティマに玉座用の衣装を渡す女中に扮装し、銃を放つ。この辺りに申し訳程度の、ミッチィの性転換ギミックへのオマージュを感じるのも哀愁がある。

ティマは最後、玉座で世界の電子機械を制御する電脳と化して、ロボットを用いて全世界で反逆をおこす。ケンイチの手で玉座から引き剥がされるも、玉座に飲まれた彼女の暴走は止まらず、ロックはロボットに占拠された巨大ビルを爆破。ティマは原作同様、崩れゆくメトロポリスから落下した。

ティマは無惨な残骸となって崩壊後の都市バラックのロボットたちに回収されていた。少ない望みを糧にティマを探していたケンイチは落胆するも、ケンイチを呼ぶティマの記憶、ティマの名を口々に呼ぶロボットたちに受け継がれた芽吹きを感じ取り、涙一筋流しながらも微笑みを返すのだった。

残念ながらこのシーンも、前述のケンイチの演技力ゆえに、弱い。Wikipediaの書き方にも当てつけめいたものを感じるのだが、海外の評価は英語吹き替え故にこの弱点が緩和されているところがあるのだろうと思わざるを得なかった。


手塚治虫「メトロポリス」

いまにみろ

短編ではあるが100ページ超でかなり長い。読みやすいページ数での話数分割などもセオリー化していない、マンガの黎明が伺える。内容も魅力もほとんど矢口高雄先生が「ボクの手塚治虫」で伝えてくれていたので、私にとって原作を読んだ価値は、矢口高雄少年が、従兄弟に借りた本が壊れていて読めなかったラストの数ページにあったと言える。


高層ビルから死滅していく人造細胞を纏い落下したミッチィは、病院に担ぎ込まれていた。死滅していく体のミッチィは腕もなくなり、顔もとけ、心臓が動くのみとなり、ケン一に見守られながら死を待つ。

人間への反抗の理由を知らされた大衆の一部はミッチィに同情し、クラスメートが病室に見舞いに雪崩れ込み、別れの握手を求める。しかし応じられる手も、顔もない。ケン一はミッチィの造形のモデルとなった天使の像を持ち込み、代わりにこれに握手しようという。

最後にミッチィは心臓までとけ切った。人造細胞とミッチィを産んだ科学者の友人と思しき別の科学者が、進歩の果ての人類の滅亡を警告を述べて終わる。


この、最後のセリフで作品のテーマを述べて終わるというのが、それやっていいのか!というかいかにも黎明期という感じなのだが、何より
ミッチィの最後と、看取るケン一たちの図は薄寒いものがある。

黒点による放射線の影響がなくなったことで、むしろ強い被曝の経過のような惨たらしい死に様を見せるミッチィは、以前に読んだ東海村臨界事故で亡くなったJCOの作業者への措置のレポートを思い起こさせた。
事故が起こり緊急搬送・入院後、米国から研究者が駆けつけ研究対象として観察されながら、幾度の皮膚移植などの処置を重ねるも細胞生成・再生機能の停止による肉体の崩壊は止まらず、「俺はモルモットじゃない」と言い死を望むも、最後まで意思に反して治療は続けられ、苦痛の末亡くなっていった様が記されていた。

もともと医学生だった手塚治虫はこうした重度の放射線被曝のありようを知り、それになぞらえこの最後を描いたのだろうか。クラスメートに天使の像と握手させる様はケン一のミッチィへの思いやりとして描かれるが、醜く変化したなら美しいイミテーションで代替しようという魂胆は甚だ浅ましいと、私は感じる。最後に警鐘を述べる科学者はミッチィを「科学の最高芸術である生命の想像はただ無駄に人類を騒がせただけであった」と評し、あくまでミッチィは天使の像と同列の、よくできた人工物の一つにすぎぬとするかのようだ。
多くの人に囲まれ息を引き取ったミッチィは、しかし最後まで尊厳を踏み躙られていたように思う。

矢口高雄少年は、このラストは大人になるまで読むことはなく、ビルからの落下までのページを元にラストに想像を膨らませ、そのテーマ性は最後まで読まずとも伝わると作品に感嘆した。

この陰惨かつ、過剰に説明的なラストを読んでしまっていては、ここまでの心酔、そしてミッチィへの強烈な恋はなかったかもしれない。偶発的な欠落が、矢口少年にとってメトロポリスを傑作以上の傑作たらしめ、その後の人生を左右する情操を産んだのかもしれないと、考えるのである。

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