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知とCと痴と。|diary:2024-05-03

漫画「チ。-地球の運動について-」を読んだ。帰省の折、姉夫婦の家族と銭湯に行き、甥、姪らと休憩漫画コーナーにしばらくいる時間があって、そこで4巻分を。続きを電子書籍で買って読んだ次第。

全体の感想

タイトルの通り地動説を巡る物語だが、コペルニクスもガリレオ・ガリレイも登場しない、史実に沿うように思わせてそれとの接点は無く描かれたフィクションである。ただこの立ち位置が作中でも曖昧というか、途中でブレた感じがあり説明しづらい。最終的には実在の人物アルベルト・ブルゼフスキを経由してコペルニクスにたどり着くという終わり方をしているが、このためになんというか、夢オチの亜種のような形態を取っている。知的な作品であるが緻密ではなく、上手くない力技で幕を引いたように思えた。

序盤は科学と宗教の善悪二元の様に見せつつ、保守と革新の立場で行っていることはどちらも信仰であるという相似を提示しながら、更に資本主義や情報革命の訪れに触れていくあたりも主題がとっ散らかってしまった様だった。

中終盤に登場するシュミットというキャラが個人的に一番興味深かった。教会の腐敗と聖書を否定しながら、神は信じている。知を危険視し自然回帰を謳いながら、活版印刷の確立を使命の一つとする。この二律背反は最終盤で語られる「疑念と信心は両立する」というテーマのリフレインとなっている様に思えるのだが、このキャラクターの思考としてもっと掘り下げてほしかった 。
私は大学の頃に日本画の真似事をしていたにも関わらず、就職はIT業界に行ったことで二つの極端な思想の乖離を折り合わせようとしていた時期があった。あの時とのシンパシーを求めたかったのだ。

”チ”の意味するところ

タイトルの”チ”の意味するところは容易に想像のつく”地”、”知”の他、”血”でもあるのだと作中で言及されていく。この一文字の同音異義をたどる物語の構成は日本語の面白さを感じさせたが、作品内での言及はここにとどまる。なので読み進めながら、その先の連想を考えていた。

同時に、この作品世界では明らかにキリスト教のことを指しながら、濁される「C教」という表現があり。逃げ腰の配慮にしては稚拙で、もはやキリスト教の歴史の暗部描いたとてこの時勢、いちフィクション作品で伏せる意味も感じない。この違和感についても考えていた。

Cはチと読める。
私の祖父は晩年「キ」を発音できず「チ」としか言えなかった。その思い出故に多少強引に考えを広げるのかもしれないが、この作品のタイトルが意味するチの同音異義の一つに、”チ”リスト教の頭文字Cが連なるのではないかと。

そして”痴”。
知と同じ発音とを持ち、病垂れを付与することで反対の意味になるこの漢字は象徴的だと感じた。「チ。地球の運動について」を読みながら想うこの漢字は、「知が失われた病」とだけではなく、いやそれよりも「知に溺れたが故の病」という意味合いが強いように読めるのだ。

殉教する主人公たちは王道の感動を呼ぶか

この作品に登場する主人公たちは、高い知性に慢心して周囲を軽んじる、シニカルな性格を披露しながら印象悪く登場する。(※純朴な武闘派主人公も出るが、天才とのバディの片割れとしての立ち位置)
そんな主人公たちは地動説に出会い、持ち前の知性に共鳴する、その美しさ、自然・宇宙の理への接近に強烈に惹かれる。
弾圧の暴力から隠れ、逃れ抗いながら観測・研究を続けるも、最後は異端審問の追求の前に殉教として命を落とす。

殉教は美談だ。暴力を受け止め屈さず、信念を守り、自分の意思を貫き、後世に託し、満ち足りて死ぬ。

殉教は任侠に似て、男の熱い純粋な物語を形作る。それは確かに感動的だ。しかしこの作品においては主人公の「地動説教」への改悛前の姿、登場時の印象があってか、少しばかりシュールに感じるものがある。かすかに因果応報めいたものを孕んでいると。
対する宗教の蒙昧を嘲りながらも、知が招き引き合わせた蠱惑的な学説を信奉し、踊らされた故の末路にも見えるのだ。

知への殉教と宗教の信仰との相似、そして

宗教の信奉による狂気、科学・知の信奉による狂気そのどちらも存在し、暴力と恐怖で妨げる側と、それに屈さず覆さんとする側、そこにある種似通う姿が存在することを描いているようにも思える。

現実において知もまた、妄信すれば破滅や不幸を招く。知への欲求は限りなく、情報は浴びれば浴びるほどに強迫的にそれを欲する。そして得た知を周りに示さねば、何かに活用せねばならないという妄念にも駆られる。その制御、自制が効かなくなった状態を「痴」、知の病と呼ぶのではないかとも考える。

そんな知をキリスト教は、信仰に疑念をもたらす異端とした。知の危険性をかさにして、証明の効かぬ脆い教えへの、信仰への恭順に縛り付けるために、疑念の芽を暴力と恐怖で摘み取る時代があった。

しかし宗教も知である。死の恐怖を緩和し、生活に規律を与え、社会を形作るための知恵の集合だと私は認識している。

そして科学は宗教と相反すると思われているが、実際にはどちらも信仰であるのだと。その違いは、疑念を受け入れるか否か、である。疑念によって生まれる新設を吟味し、受け入れて既存の説を補完し、上書きしていくことを認めたことが、宗教との決定的な違いであるとも、この作品は示している。

最終章、「疑念と信心、どちらも持っていて不都合が?」という言葉で綴られる問答がある。
読む中で連想したチの同音異義たち。それらが衛星となり、”知”と”C”が互いに相似なものとして眼の前を巡り、”痴”が時たま掠めていく。遅れて”血”が続く…そんなイメージを思い起こさせるのだった。

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