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2024/03/24の日記 : 映画版「薔薇の名前」とダークソウル3、読みと深読みとフロム脳

 毎度のことながら傾倒しております、年間読書人氏のレビュー記事で知った「エーコの読みと深読み」を買って読み終えていたので、1986年の映画「薔薇の名前」を観た。
「エーコの読みと深読み」は、学者であり作家ウンベルト・エーコが代表作「薔薇の名前」「フーコーの振り子」の反響を経て、読み手の想像以上の解釈の広がり、作者の意図を遥かに超えたその飛躍に触れるにあたり、適切な範疇の読解"読み"と夢想妄念の類"深読み"の線引はどこにあるのか、ということを論じた講義を本にしたもの。それに加えて"読み"の時点をも否定するプラグマティズムを携えた学者の反論、あるいは無限大の"深読み"も肯定しようという立場から主張を補完する批評家の寄稿などを、ディベートのように対比的に配置・編纂されている。その中で特に引き合いに出るエーコの小説を読む…その前に、映画の方を観るのであった。

 原作作品に対し他メディアへの展開、映像化作品がある場合、後発の映像化作品側を先に観るようにしている。こうしたとき、大筋とビジュアルが頭に入り見通しが良くなった状態で源流に相対し、紐解く楽しみとともに、映像化作品の中で切り落とされた部分、映像化の上で創意工夫された差異が現れていくことになる。
映像化にあたって切り落としたものと残したもの、あるいは更に独自に膨らませたものであったと知るならば、そこに込められた意思、映像という制約への戦いと工夫に想いをはせることが出来る。

 よく言われる原作リスペクトがどうだとか、”コレジャナイ感”だとかに煩わされることなく観ることが出来るのも強みだ。昨今の「映像化は寸分違わず原作に忠実であることこそ至高」というような風潮は唾棄したいし、蒙昧な消費者のエゴとは無縁でいたいのである。

 前置きが長くなったが、映画「薔薇の名前」について…ここまで引っ張って通俗な感想になるのだが、その映像世界は自分がこれまでの人生で一番プレイしたゲーム「ダークソウル3」を彷彿させるものが多く、そのことがまず大きな興奮となって押し寄せるものだった。
 ミステリ、サスペンス故に終始暗く恐ろしく、寒々しい雰囲気が漂う画面。城塞とも見紛うような修道院を舞台に、信心と、それを縛り付けるための狂気が渦巻く修道士と司教たちの暮らし。豚の世話や屠殺などに従事するくる病の下男、門の外には貧しい農民が税の支払いに列をなし彷徨い…これらの描写が「ダークソウル3」の序盤ステージ「不死街」「深みの聖堂」を強く想起させる。そして物語が進めば、審問官や教皇、騎士たちが到着し、それらを内包するゲームの舞台「ロスリック」との相似はより強まっていく。そして極めつけの、巨大な修道院の上部、隠し扉を開けた先に現れる大書庫!これもまたロスリック城の一端、終盤の名ステージではないか。

一瞬ではあるが
あの籠も登場
修道院司書マラキーア
大教主マクダネル

修道院司書のマラキーアの風貌はまさに深みの主教、大教主マクダネルを思い起こすだろう。

自らに鞭打つマラキーア
アリアンデルの薔薇

また彼はゲームに登場する武器「アリアンデルの薔薇」よろしく自らに鞭を打つシーンがある。「アリアンデルの薔薇」はバラ鞭でマラキーアの使用する鞭は一本鞭という違いはあるが、薔薇の名を持つのが関連を仄めかすようで興味深い。ああこうした言葉尻を捕まえた夢想、これぞエーコのいう”深読み(過剰解釈)”だろう!

 フロム・ソフトウェア製のゲーム、特に「ソウルシリーズ」ではストーリーの描写や説明を最低限に削り、フレーバーテキストや道中に登場するアイテムや死体の配置といった一つ一つに意味を持たせて物語をプレイヤーに想像させるという形式を取っている。また「チェックポイント」「ゲームオーバーとコンティニュー」「クリア後の周回」といった、ゲームとして避け得ない、通常なら「そういうもの」として処理される定石のシステム、そしてプレイヤーが「画面の中に先に広がる別の世界を見て、操作している」という構造すらも世界観の一部として象徴的に取り込む。

 こうしたゲームの作り込み様に心酔し、その考察を巡らせることを喜びとする者たち、その、他者の目には飼い慣らされた信者のように映る思考は”フロム脳”と揶揄される。

 「ダークソウル3」が映画版「薔薇の名前」のビジュアル、モチーフにインスパイアされているとするならば。
 ウンベルト・エーコの、記号論の研究に裏打ちされた”読み”の示唆に富んだ小説の方からも影響を受けているに違いなく、そこにはまだ読まずとも、フロム・ソフトウェアの作風との共通点に想いを馳せられるのだ。

 それこそが、さしたる論拠も揃わぬうちの蒙昧な”深読み”、フロム脳と嫌われる、思考だろうが…エーコが論じた”深読み”と”フロム脳”は意を同じくするものだろうし、故に"フロム脳"の私はそのタイトルに惹かれて、自らを鏡に映すべく「エーコの読みと深読み」を手に取ったのだと、今は思うのだ。

さて本丸、小説「薔薇の名前」を読んでいこう。

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