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”同性愛”を”異性愛”に置き換える広告表現。あなたはどう思った?|REING NIGHT

Creative Studio REINGでは『REING NIGHT(リング・ナイト)』というイベントを不定期で開催しています。ジェンダー的観点からお互いの意見や感じ方を対話するオンラインイベントです。

💜 REING NIGHTとは?
日本のジェンダーイシューについて視点を掛け合わす場、REING NIGHT。身の回りに溢れるTV番組、雑誌、広告、映画等、コンテンツにおける表現に触れることで、誰しもが知らず知らずのうちに「性別」によって、人としてのあり方や生き方を想定してしまっているかもしれない。これまで長い歴史の中で築かれてきた「男性として」「女性として」こうあるべきという見せ方や表現について、私たちは何をどう捉え、考えていけばいいのだろう。


ー 異性愛と同性愛の描写は、同じもの?

昨年9月25日にオープンリー・ゲイでもある若き映画監督、グザヴィエ・ドランの新作『マティアス&マキシム』が公開された。

この作品を日本で上映するにあたり、配給会社は主人公の男性二人を「男女」に置き換えたイラストのポスターを公開した。その表現に対してSNS上では大きな議論が起こり、ポスターを非公開にした上で謝罪文を掲載したというのが一連の流れだ。


SNS上では様々な声が寄せられた。

「同性愛が認められるいつかの日を待つまで別々に扱うのではなく、変わらないものとして扱っていたことが素晴らしいと思う。」

など、肯定的な声も見受けられる一方で、


また、詩人の最果タヒさんは自身のブログの中でこう述べている。

「ドランはこの映画について『ゲイについてではなく人生についての映画だ』と言っている。『これはただのラブストーリーなんだ』私も、そうだと思う。愛は愛だよ、ゲイの映画にある愛だって、ただの愛だ。でも、それをずっとそう見ようとしなかったのはヘテロ側で、「ただのラブストーリー」という言葉はそのグロさに対する言葉でもあるように聞こえた。

このブログはTwitter上でも拡散され、多くの共感を呼んだ。



ー”同性愛”を”異性愛”に置き換える広告表現。あなたはどう思った?

広告に限らず、今回のケースのように同性愛を異性愛に置き換えられることは少なくない。そして、その多くは、セクシュアルマイノリティを”受け入れる”という肯定的にも思える文脈で起きている。

2020年10月13日に開催したREING NIGHTでは、

・この広告に対して抱いた違和感
・「その物語をたくさんの人に知ってもらうためにこういった広告を使うことは、マジョリティの理解を獲得できるのでは?」という一部の意見を、どう思うか

などについて、9名の参加者とともに意見を交わした。


🗣 広告的な意図が不適切だったのでは?

そもそも恋愛映画だと思わなかった。典型的なホモソーシャル(※恋愛または性的な意味を持たない、同性間の結びつきや関係性のこと)みたいなものを描いていると感じた。だから異性愛だけではなく、女性同士の恋愛に置き換えることも不適切だと思う。(今回の広告は)映画をねじ曲げちゃってるような印象を受けた。
映画は啓蒙のためにあるわけではない。そもそも映画にはいろんな読み取り方があるわけで、それを異性愛に置き換えることで「この映画は”恋愛映画”なんだ」という印象を与えてしまっている。この広告の残念なところは、観る側のいろんな楽しみ方を否定してしまっているところかな。

🗣 セクシュアルマイノリティの”普遍化”

”同性愛を肯定するつもりの文脈”において異性愛に置き換えてしまうことが多い気がする。その根底には、自分がノーマルで、全部自分に置き換えられるはずという考え方があるのでは。同性愛と異性愛にはイコールじゃない部分がたくさんあるのに、やたらと自分に置き換えてわかったふりをしてしまう。なんでも理解できると思っているマジョリティの傲慢さを感じた。
「キスした瞬間恋に落ちてしまった」というキャッチコピーに、恋愛の画一性を感じてしまう。恋に落ちる方法は人それぞれ違うのに。
「その作品をいろんな人に知ってもらうことが同性愛の理解に繋がるとしたら、それってポジティブじゃない?」と聞かれたことがある。結局違うものは違うし、その人の「知る」には繋がるかもしれないけど、「理解」にはつながらない気がして。手早くたくさんの人に届くことが必ずしも正義ではないなと思った。
”違うもの”としてそれぞれを受け入れることと、”同じもの”にして扱うって全然受け入れ方が違うよね。

🗣 謝罪文に対する違和感

「批判されたから撤回します」みたいな謝罪は、だったら出すなよ!と毎回思う。今回のような謝罪の仕方は、不快に思った側が責任を負わされているような気がした。批判された時、それをファーストステップとして良い方に変わっていったらいいのにと思う。

🗣 社会における”同性愛映画”の扱われ方

”エモい映画の1つ”みたいな受け入れ方が心配。綺麗な男の子二人のお洒落な映画、みたいな。トレンドで終わってしまいそう。だからこそ、広告の出し方には気をつけて欲しい。
フェミニズムとかの映画は常にメッセージ性を求められる。「みんなに受け入れてもらう為の手段の1つになればいいね!」ってそれは違うでしょう。


ー議論の中で見えてきたキーワード、”理解”

議論の後半では、「マイノリティへの理解」というキーワードを元に、それぞれが思い思いにこれからの社会について語り合った。

”理解できないもの”を排除したがる社会。新しいものを受け入れる時に「理解」できると思ってる。マイノリティの人たちを受け入れる時に「理解」が必要だと思っているけど本当にそうなのか。「理解を得る」という言葉に違和感。結局マイノリティの人たちが、「理解を得る」ために、何かをしなきゃいけないことがおかしいと思う。
ジェンダーに限らず、こういうこと考える時って、架空の当事者を想定した議論になりがちなんですけど…。理解は、カテゴリーごとではなく、対生身の人との対話でしか生まれないし、人間対人間である以上一方的な理解なんてあり得ない。「とりあえず隣に座って見て、ちょっとずつ歩み寄ってみようとする」みたいな態度においてしかないのかなぁって思います。悪気なく、傷つけ合うことも、マジョリティ・マイノリティを超えて必ず起きてしまうし、その時に「あ、それは違うかな〜私はこんな感覚なんだよね〜〜」って言える地盤を作りたいですよね…
マジョリティの理解を得るために、本来は違った物を持ってくるのは、マジョリティに対する忖度みたいに思えて良い気がしませんでした


参加者の皆さんの声を聞いて感じたのは、今わたしたちには、同性愛やセクシュアルマイノリティへの「理解」ではなく、「ただ受け入れること、排除しないこと」が求められているのではないかということだ。

人は”異質なもの”を受け入れようとする時に、無意識のうちに自分に置き換え、理解しようとすることがある。そうして理解”できた”ものを受け入れ、理解”できない”ものを排除してきた結果が、「同性を愛すること=異質なもの」とする今の社会なのかもしれない。

本質的には「恋愛に性別は関係ない」と言えるだろう。

今回のポスターのように同性愛を異性愛に置き換えても問題はないのかもしれない。しかし、それは前提条件として、同性愛者の存在が可視化され、彼らを取り巻く問題が社会的に認識されている状態でのみ成り立つもの。今この日本では、同性愛と異性愛は決して同じに扱われていない。同性婚は法的に認められていないし、同性愛者が異性愛者と同じように身体的・精神的安全を確保すること、オープンに生きることは難しい。同じ”愛”でも、社会での扱われ方は全く異なる。

にも関わらず、「形はどうであれ愛には変わらないよね!」と雑にひとまとめにすることは、マイノリティの方々を取り巻く様々な問題や差別を見て見ぬ振りをすることに繋がらないだろうか?という視点に立つことができたのは大きな前進である。

広告表現ひとつとっても、本当に伝えたいことはその表現で伝わるのか。誰にどう寄り添いたいのか。どうすれば誰のことも踏みつけない表現ができるか。こういった議論や対話の総数を増やしていくことで、私たちも模索し続たい。

Writer : Ai O’Higgins
Editor:Yuri Abo


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