-短編小説- サザンカ

その花には、何とも苦いような妙な因縁がある。

四年前、娘が生まれる年の十一月のことだった。うちの庭に白いサザンカがひとつ、きれいに花びらをつけたまま落ちていた。滔々と流れるのは雲なのか空全体なのか、見分けがつかないほどすっきりとした秋晴れの朝である。その花は、まるで天から偶然落ちてきたとでもいうように、青丹芝生のまんなかでぽつりと上を向いていた。私は会社へ向かおうとして、ふと足を止める。花びらが陽光を透き通って瞳の奥まで響くほどまっしろい。微かに影がゆれると、風をほんのり色づけるように甘い香りがたなびいた。私は束の間、家の前に立ち止まって芝生を眺めていたが、隣の雨戸が開く音でまた歩き出した。

すたすたと坂を下りながら、水で溶いたような空を仰ぐ。このところ相当に冷え込んでいるらしい。緋色に巻かれた襟元のすきまを、湖の底から取り出したみたいな冷気が目敏くすり抜けていく。私は思わず首を竦めた。そういえば、あのサザンカはどこから飛ばされて来ただろう。近所では見かけない花である。うちの褪せた芝生だから余計にそう見えるのか、羽毛布団から産まれたてのようなまっしろさが何とも無垢でいい。私は、坂を下りるごとに段々と消えていく遠くの山を見つめながら、朝のカラカラと鳴りそうなほど軽い頭の中で、当てもなくそんな心地を転がしてみたりした。しかしそれきり、花のことは忘れてしまった。

***

二度目に庭でまたサザンカを見たのは、十二月に差し掛かった頃である。十二月の三日か、四日か、その辺りだろう。何故四年も前のことを仔細に覚えているかといえば、そのころ妻がいよいよ出産間近となり、いつ陣痛が来るか来るかと、固唾を呑んで見守っていたからだった。その日私は、休みを取って妻の定期検診に付き添うことになっていた。連日つめたい雨が降りしきっている。その日も、霈然と掻き回される辺りの気配が、居間からはただ霞んで灰色の飛沫に呑み込まれてしまうかに見えた。何でも鬱鬱として冴えない。私は居間を立って、寝室に妻を起こしに行こうとした。するとほぼ同時に扉が開いて、起き抜けの妻が入ってきた。伸びた前髪のあいだから二重の目を重たそうに向けて、「体が怠いの」と言う。

「怠い?また痛むのか?」と妻の方に近づくと、

「お腹は平気。この部屋暖房付いてる?」

そう言いながら目は、台所の流しや床などをさっと見まわした。

「うん、…寒い?」

私は何となく彼女の機嫌を察知して、

「もう少し向こうで横になってたらどう」と言ったが、

「ううんいくら寝ても怠いの。」

こういう時は頑なであった。妻は背中を掻きながら私の横をもたもたと抜ける。そうして長椅子のそばの床暖房に、脱力するように座り込んだ。体が思うように動かないだけに仕方ないが、腹の中の赤ん坊も転びそうなほどご機嫌斜めのようであった。「困ったね。温かいお茶でも飲む?」と私が訊くと、今はいいと言う意味で小さく「うん」とだけ言ったきり、窓の方を向いて暫く黙ってしまう。雨はしとしと降りになっていた。

私が二度目のサザンカを目にしたのは、その直後であった。そろそろ大学病院へ向かうという時分に近づいて、妻が身支度を始める。外は相当に冷えるだろうからと、私は、妻が厚手の腹巻きに取り替えるのを手伝ってから、車を出しに畳を立った。妻はそこまでしなくてもと言うが、車の暖房が良い効き具合になったところに妻を乗せるのが、冬に入ってからは何となく私なりの気遣いになっていた。その習慣に従って、私はその日も先に玄関を出た。庭を遮って車庫へ向かおうとして、ふと横を見る。

また、白いサザンカがあった。

私はこの時も思わず、足を止めて見つめた。しかしそれは、最初に見かけた時のように見慣れぬうつくしさに惹かれて見たのではなく、今度はいささか首を傾げて見つめた。何だろうと思った。この間と同じ、白のサザンカである。だいぶ雨に打たれたようだが、きれいに花びらをつけたまま落ちている。しかし先月のは見て放置したきり、今日に至るまで目にしていない。妻はあの身体で庭仕事が出来ないので、自然と風にでも吹かれて何処かへ飛ばされただろうくらいに思っていた。いや厳密には、そう意識にものぼらないまま、記憶の彼方へ葬られていたというべきか。音を立てて、大きな雫が背後の庭木から傘に当たる。何とも不思議なことが、二度もあるものだ。

その時、玄関の方でガチャンと音がした。妻が寒そうに扉から顔を出してこちらを見たので、咄嗟に、ごめんあと少しと言って私は車庫に駆け寄る。しかし妻は急かしたのではなく、腹を抱えて苦しんでいるのだと、ようやく気付いたのは濡れたドアノブに手をかけてからであった。あっと声が出る前にまた玄関へ駆け戻ると、その途中で冷たい水滴が今度は瞼に落ちてきた。

暫くして妻の痛みがおさまると、今度こそ連れ添って車へ乗り込み、傘を閉じる間も惜しいほどとにかく先を急いだ。それで庭の方のことはまた一旦忘れられた。何しろ、その時は花どころではなかった。

***

帰り道も相変わらず、篠突く雨が道路を白く掻き鳴らしていた。影が落ちた暮方の車内で、遠く砂嵐のように鳴る雨音をワイパーがこんこんと遮っている。妻はいつの間にか眠りに落ちていた。出産は年内だろうと言われた。助手席から私の方に少しはみ出た頭が、交差点を幾つ過ぎても化石のように動かない。車は家の近くの大通りに出て、交差点でまた止まった。私は、横で大事そうに白い腕に抱えられている腹をながめた。そしてふと、先週の帰り際に職場でもらったお産祝いのことを思い出した。出産前に祝いを渡すのはいささか配慮に欠ける気がしたが、渡してきた二十五、六の部下の女は、そういう類のことに気のまわらなそうな質であった。大して可愛いわけでもないし、天真爛漫と言うにはいい歳である。しかし周りもテンシンランマンな子だねと言うほかに形容の仕方が見当たらないほど、彼女の右頬に張り付いたえくぼは、あの特徴的な高い声で笑うとより一層深く刻みこまれるのであった。もらったお産祝いは、そういえばまだ開けすらしていなかったと私は今更のように気付く。

車が走り出すと、もう随分と雨足は弱くなっていた。前を走る車の尾灯で、妻の腹が橙に染まる。その布地にフロントガラスの水滴が影を落として、ゆらゆらと視界の端で動いた。そういえばひどく腹が減っている。私は住宅街の小道を曲がって、コンビニに寄った。妻も起きてついてきた。一眠りして回復したらしく、顔の血色がよく戻っている。私は昼間のことがあったので、妻の様子を見てひとつ安心した。

店を出るとき、そういえば行く前にあなた庭で立ち止まってたけどどうしたのと、妻が顔を向けてきた。私は一瞬何のことか判らず、ああと思い出してから、何となく言葉に詰まった。そして、ただサザンカが落ちていたとだけ答える。すると妻は、あらと言って、でもサザンカは花ごと落ちないよね、花びらが散っていたのと不思議そうに訊いた。そしてお腹を抱えながらよいしょと助手席に乗り込んだ。

***

私は妻の一言にどきりとした。或いは、そのときも一度首を傾げたきり、また翌朝には何でもなく庭のそばを行き来していたかもしれないものが、思わず小石に躓いて足元をみると、今度は僅かながらも疑念の芽が出ていることに自分で気付いたのである。夜が明けてから、私はひとり庭を見に行った。サザンカは昨日のまま、同じ場所に落ちている。大雨の後で幾分しんなりとして、おそらく雨に打たれたと思われる方向に気持ちばかり、花びらの全体がよれてはいるものの、変わらずそれはまっしろく、清潔なうつくしさがあった。調べてみると妻の言った通り、サザンカは花びらが少しずつ散っていくのであって、花ごと、ぼてっと落ちるわけではないようである。私は花を見た。白い花肌のうえを露がつるっと落ちて、黄色い雄蕊に消えた。妙であると思った。思ったのに、何故だかその時も、妙である以上の、より具体的な可能性について私の考えが発展することはなかった。庭木の向こうから子どもの声が聴こえて、自転車が前の坂を過ぎてゆく。私はかがんだ腰を戻して、寝巻きに羽織ったコートの襟をつき合わせた。こうして花を眺めている自分が、何だかとてつもなく暇人のように思えてくる。それで結局、私は庭に出てみただけで、十分もしないうちにのそりと二度寝に戻ってしまった。

***

それから十日ほどが過ぎた。私のサザンカに対する確としない疑念が重い音を立てて動いたのは、思わぬことからであった。

いよいよ年の瀬という時分にあって、妻の体調は比較的よく安定していた。一昨日からは義母が家に泊まりに来ている。これが妻に付きっきりなので、私の方はむしろ変に落ち着かなかった。自分ひとりの食事を済ませ、左右をうろついては、時折り義母たちの様子を伺い、日頃めったに座らない居間のチェアに腰掛けて腕を組んでみたりした。義母が来ているのに終始横についているのは邪魔だし、何もしないのは肩身が狭い。そんなこんなで、消化不良の欠伸が溜まっていく一方のある晩に、私は大学時代の旧友から飲みに呼び出された。別段行きたいという強い気持ちが湧いたわけでは無い。しかし、その時はむしろ妻の方が気を遣って、家のことはお母さんがやってくれるし行ってきたらと言う。それで私は、少し顔を出すくらいのつもりで出かけて行った。

結局のところ同窓会は、年の瀬の上気した雰囲気も手伝って大変に盛り上がった。そうと言っても自分を含めて六人という規模であるが、こういう時には大抵誰かが欠けるので、全員揃うのは七年ぶりである。私は二十二時の、街灯が薄白く差している帰路を上機嫌で歩いた。懐かしい時間にとっぷり浸かった後の充足感と、近ごろ習慣から遠ざけていた酒の酔いとが、私の心にひたと染み込んで冷える夜に余韻を引いた。こうしてみると、特に不快と感じたこともない普段のあれやこれやが、心の深層のところではそれなりに自分の負担となっていた場合もあるらしいと気が付いた。だが今は、そんなことはどうでもよい。私はせっかく開放的になったいい心持ちを崩したくないばかりに、具体的な考え事は自ら避けて、宙に浮ついたままのふやけた足取りで家の門に手をかけた。と、その時、奥の方でさっと何かの影が動いた。私は如何せん頭がぼうっとしていたので、その動いたあたりに目を凝らして立ち尽くしていたが、もしや泥棒ではあるまいと思った瞬間、息つく間もなく庭の方へ駆けていた。頭を動かさずに薄暗い辺りを見渡す。居間はすでに消灯しており、通り沿いの街灯から朧げな白光が、斜めに庭の脇を一筋照らしているのみである。しかし、今まさにその照らされたところから、再び動く気配がしたのだ。どうやら相手は家の脇に入り込んで、隣家と接するところの細い通路に息を潜めているらしい。私は靴裏が芝生と擦れないように慎重に足を運びながら、脇の方へ少しずつ近づいて行った。そして危うく飛び上がりそうになった。息を潜めて通路を覗き込む私の足元に、光る二つの目があったのである。猫だった。私は暫く状況を飲み込めず、もう二度、三度と通路の方を覗き込んで、そこが一切の静寂に包まれているのを確認してから、ようやく影の正体がこいつであったのだと認めることになった。猫は私がそうしている間に背を向けて、のそりと芝生の脇を向こう側へ移動していた。私はよく分からない状況の中、安堵と疲労と困惑とで綯い交ぜにされた気分を、遠いてゆくまるい背中にぼんやりと投じた。斜めに差し込む街灯の光をうけて、影が動きながら私の方に長く伸びている。猫はそのまま庭木の隙間から外へ抜けるらしかった。小さな頭を潜らせようと、身を屈める。そうしてやがて向こう側へ消えると思った時、猫が今度はおもむろに、何かを訴えるような目でこちらを振り返った。枝の間から街灯が差して、照らされたところに猫の顔が浮かび上がる。私は、はっとした。その口には白い花が咥えられていた。

しかし気付いた頃には、猫は姿を消しており、辺りはもとの薄暗い静寂に戻っていたのだった。

***

その晩、私は妙な夢を見た。

明るい午後の庭にいる。
空気の塵すら照らされそうな暖かい陽光の中、向かいにあるソヨゴの木陰から白猫がひょいと現れた。昨晩の猫であった。口にサザンカを咥えている。白猫はゆっくりと蛇行して歩きながら、しかし明らかに、私の方へ向かってきていた。ふさふさとした白い毛が動くたび優雅にたゆたって、枯れかけの芝生の中で、絹のような光沢の波をたたえている。猫は私のところに来ると、眼の前でサザンカをぽとりと落とした。私は落とされた花をじっと見た。見つめる、見つめる見つめ見つめるうちにまっしろな花びらにじぶんが吸い込まれそうになって、いることに気が付いた。慌てて顔を上げる。すると私の鼻先にはまっしろな人の肌が横たわっている。あの部下の女であった。透けるようにまっしろい花びらの、先のひらひらとひらひらの隙間に泳ぐ影だと思っていたのは、この女の小鼻だった。見ると思うまでもなく見ていた。陽光に照らされたまつげの影が白い肌に落ちて、蝶みたくゆらゆらと浮かぶ。初夏を思わせる鮮やかなきみどりの芝生に、二の腕がつるんと照らされる。皮膚がぴんと張って、水を弾きそうなくらい。いつの間にか猫もサザンカもどこかへ消えていた。私はそこの肌に手を伸ばす。

夢はそこで途切れた。
まだ真夜中らしかった。寝室はとっくりと闇に沈んで、いま目を開けているのも定かではない。私はごろんと寝返りを打った。あれは何だったのだろう。判らない。自分という意識のなか、近ごろ遠のいていた艶姿のまざまざと映り出たのに、不意打ちを喰らう思いがした。だがそれよりはるかに、女が、あの部下の女であったのに胸の何処かがざわと鳴る。妙に鮮明であった。女にある無数の細胞の、その輪郭さえ見えるかというほど、果たして、あれは女の体の鮮明さではなく、私の眼差しの執念だろうか。それを思うと、途端に私はひどく虚しい波を心に感じずにいられなかった。あの女は現実には、器量が良いとはまず言えないのである。何故だろう。現実に良くない女を夢の中で欲望のままに艶美と仕立てあげてしまった自分の、正体の判らない物悲しさが、暗い寝室に行き場なく漂った。いや、もう目はだいぶ慣れていた。薄闇に丸まった目の前の背中を見つめながら、私の瞼の裏にはまだ、つるんと光る真珠のようなまっしろさが、ふふと笑って余韻を引いていた。

それきり、サザンカが私の前に現れることはなかった。




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