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それなりに差別が「ある」世の中を生きながら思うこと

緩やかな差別の中で

私たちは、緩やかな差別の中を生きている。緩やかな差別は、はっきりとした形を持たずに笑いの形をとったりするから、なかなか指摘しづらい。

最近電話した友人はこう言っていた。「今はユニセックスが流行っているけど、結局は男らしさとか女らしさからは誰も逃れられなくないですか?男ってやっぱ自分を装飾する手段も伝統もないわけで。」

あるいは、こんなことを言う友人もいる。「なんか男二人でずっと一緒にいるのって変な感じしない?あ、ホモっぽいとかじゃなくて〜…」

こんな言葉を聞くこともある。「あの社員さんてブスだよね」「さっきの営業先の人、オカマっぽかったね」「下着のCMの吉田沙保里って誰得なん?笑」

そう言っている相手が友人だと、とりわけ自分と二人だけの関係においては、指摘しなきゃなぁ、と思う。嫌な顔されるかもしれないし、説教くさいと思われるかも。でも、「私は差別発言が好きではないですよ」と表明しておくことは重要だと思う。

差別意識について「考える」がしたい、指摘したいわけじゃない

最初の人(ユニセックスと装飾嫌いの人)には「まず、装飾の伝統がない、とか生物学的に『オスは装飾をしない』とか、全体的に嘘じゃないかなって私は思うよ」みたいなことを言った(西洋貴族とかは結構帽子とか服とかオシャレしがちだったよね、昔の日本の貴族も化粧してたりしたよね、とか、孔雀とか鳥とか全体的にオスの方が派手だったりするよね、とかそんな話をした気がする。)。お互いに意見交換をする、みたいな場だったので、私が穏やかに話せば穏やかに受け入れられ、相手は「俺ってやっぱ結構保守的なのね…」と言っていて、私は「男らしさが好き、マッチョイズムが好き、装飾したくない、と個人的に思う、みたいなの自体は全然いいことだと思うんだけどね〜」とゆるゆるフォローをしてその辺りの会話は終わった。

もう一人の方(男二人で〜の人)は少し厄介だった。楽しい雰囲気も崩したくなかったけれど、明らかに自分の顔が固まっていくのがわかった。「男二人ってなんか変な感じするよね」は個人の感想ならまだいい。私は少しもそうは思わないけれど、もう聞き流そうかな、と思っていた。でも冗談の文脈で使われる「ホモ」は差別用語だ。その後に「あ、全然私はそういうの大丈夫だけどね」と続くのを聞きながら思う。「大丈夫」ってなんだ。性的マイノリティは誰かに受け入れられないと存在してはいけないのか。でもそれをこのにこやかな場で指摘するのは気が引ける。差別に対し興味を持たないまま差別をする人に「差別ですよ」とダイレクトアタックすると大抵は「嫌がられ」る。嫌がられて差別が温存されるのは避けたい。どうしよう、と思って苦肉の策で口から出てきたのは「どうして、男二人だと変だと思うの?」という質問で、あ、これも先生っぽくなって嫌がられるやつだ、と思うと少しだけ口の中がピリピリした。本当は嫌がられたくないし、嫌な顔はされたくない。でも、やっぱりそのちょっとの言葉の中に、残された差別意識が見えるのは、特に自分の好きな友達であればあるほど、悲しい。いつも思う。指摘することは相手を傷つけることだ。だから相手は嫌な顔をする。できることならなるべく気持ちよく、楽しい時間を過ごしたい。

でも、次からのお互いの関係を気持ち良いものにするためにも、言わざるをえないのだ。また話したいから。次こそは楽しい時間にしたいから。自分の友達の中にどれほど性的マイノリティがいるかはわからない。相手の交友関係の中にだって、そう。自分だって潜在的にはマイノリティである可能性は十分にある、と思うと、自分や自分の大切な人たちを無意識のうちに下に見て否定するようなことを自分の好きな人たちに言って欲しくない、と思ってしまうのはわがままなんだろうか。

そんなに差別する人が嫌ならその人たちと付き合わなければいい、とか言う人たちに言いたい。本気で言ってる?何度も言うけど、好きな友達でこれからも付き合い続けたいから、どうしたらいいのかわからなくなってしまうのだ。

推しだってそうだ。差別発言しようと推しは推しで、でも私と推しの間には人間関係が存在しないから、推しに直接その発言について「どうしてそう思うの?」と聞くことができない。働きかけることができないことに疲れて、私の推し活は緩やかに終息していっている感覚がある。「一般的な日本人男性の価値観」を持つ人を推すと決めるのには相当な覚悟が必要だ。差別発言が出ても動揺せず、常に冷静に指摘し、それが推しの元に届かなくても、推しが変わる様子を見せなくても、ただ推し続けるという覚悟。私には辛すぎた。

「それ、差別だよ」とか、「この時代にそんなこと言っちゃダメだよ」と指摘するのは、正直比較的簡単だ(場の空気を考えると簡単ではないけど)。でも、私はそれで終わらせたくない。差別的な発言を、自分含めしてしまうことはこれからの人生十分にありうる。そのときに一番大切なことは、「何がよくないのか、何が差別的なのか、何でそういう発言や思考をしたのか、差別はどうしてよくないのか」と常に自分に問い続けることだと思うし、それができれば、例えお互いの中にある、表出した差別感情的なものを指摘しあったとしても、関係性がこじれたり嫌な顔をされることはないのではないかと思ったりしている。だってこの一連の問いは、自分たちの心の中に巣食う差別の存在を前提とした上で、差別感情あるよね、だからこそどう考えていくのがいいんだろう、と思うことで生まれてくるものだと思うものだからだ。だからついつい相手の差別的だなぁ、と思う発言に対して「どうしてそう思うの?」と聞いてしまうのだ。考えてほしい、なんて傲慢な感情だけど。

「差別しちゃダメだよ」と言うことは、発言の萎縮を産む。この人の前で性的マイノリティの話できないな、と思われるのは辛い。でも好きな友達の差別的な面に対して「その通り!」と反応して差別を再生産するのは絶対にしたくない。私に残された言葉は「どうしてそう思うの?」だけだ。

「正義」よりも「相手を知りたい」を動力源にすること

そして、これら緩やかな差別、はいわゆる「同性愛者を犯罪とするような国」の人たちと比べれば、あるいはもっと身近なところに潜んでいるであろう「同性愛者をいじめるようなコミュニティ」と比べれば、はるかに差別的でないことも私は知っている。それよりマシだろうと言われれば、それよりはマシです、と言う。でも「マシ」でいいの?とは思う。同じ時代を同じように生きている人たちが、いわゆるストレートでヘテロな「普通の」人たちよりも、ただその生まれついた属性を理由にされ、その属性が誰に迷惑をかけるでもないのに、生きづらくなってしまうのが「よくて当たり前の状態」と胸を張って言えるだろうか。私は言えない。私は言いたくない。

友達だって変わらないかもしれない。私だってやっぱり好きな友達には嫌われたくないから、これからもあまり上手く差別について好きな友達に話せないかもしれない。というか、どうしても自分の中にも存在する差別意識の存在を自覚すればするほど、相手に「差別的だよ」と直接的に指摘することは難しくなる。自分の中の「正義」が正しいかなんて常に揺れ動いてよくわからないからだ。だから、「正義」を動力源にして動くことにはいつも躊躇してしまう。

だからこそ、私は相手を「知りたい」という欲求を動力源にする。いつか嫌われるのかもしれないけれど、「どうしてそう思うの?」ときっとこれからも私は言い続けるし、「それは差別発言です!」とパキッとは言えない人生を送るんだろうな、と思いながら、とりあえず友人を大事にしていきます。


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