見出し画像

短編小説 幻想輪舞曲

 夜闇の中で、烏が鳴く。それはとても異質で人々の雑踏の中にいた僕にも聞こえたほどだ。烏が夜に飛ぶことはほとんどない。何か危険なことがあったのか、それとも街の明かりに目が眩んだのか。
 この世はとても空虚だ。街の明かりは派手に人々を染め上げるが導くことをしない。そこには中身のないネオンやアルゴンがただ煌々ときらめくコンクリートの森が広がるだけだ。僕はまだ明るいビル群を見て、自分の体を見てみる。細い。何日も会社で泊まり、ろくに栄養と睡眠をとっていないからだろう。今日の夕方にやっとすべての仕事を終え、家に帰れるようになった。早く帰ってシャワーを浴び、庁舎の堅いソファーとは羊とラクダほどの差がある家のベッドで眠りたい。そう思いながら街を歩きだした僕の前に、木でできた看板が現れ、横から僕の関心を奪っていく。「古本屋 朧月ろうげつ堂」と書かれたその店は、僕がよく通っていた古本屋だった。
 その古本屋はビルの地下にあり、どこか社会と隔絶された空間だった。そこでは皆が1人だが、売られている雑貨を見たり、本を立ち読みしながら同じ時を過ごしているせいか孤独という感じはあまりしない。僕もこの空間が好きだ。1人にはなりたいけど孤独にはなりたくない。そんな数学の集合の真ん中に位置する中途半端な僕にとって、この空間はとても居心地の良いものだった。
 僕は本の横でポツンと忘れられているコーヒー豆を手に取り、一羽孤独に街を飛び去る烏を想った。

それから一週間後、雨が降った。人々はあらかじめ持っていた傘を差す者や帰路を急ぐ者たちが雨の日の街という要素の一部分となっている。僕はまた泊りがけで仕事をし、また雑踏の中を歩いていた。とても疲れていて、栄養失調気味になった体は空っぽになったようだった。
 そんな状態でもあの看板はまた僕を引き付けてくるようで、あの看板を見た瞬間、ほぼ無意識で朧月堂へと降りる階段を下っている。なんだか自分の中の自分が幽体離脱下気分だった。店の中は店主の趣味だというジャズが流れていて、照明の明度も限界まで落とされており、薄暗い。ああ、なぜ僕はまたここに来たのだろうか? この前買ったコーヒーだって未開封のままだし、本の積読だって溜まっているというのに。第一、僕には休んでいる暇がない、この後も少し寝たらまた登庁だ。
 今更になって幻惑状態が解け、現実に引き戻された。ぼんやりした心持の中で何も買わないで外に出る罪悪感をわずかに感じながら木製の扉を開けた。

 朧月堂の扉を開け、ふと階段の上を見ると、ひとりの女性が立っていた。その女性は烏を思わせるような黒のチェスターコートに黒のブーツを履いていた。その指の間に挟まれたたばこからは雨霧のような煙が上に登っている。
 彼女は僕の姿を認めると、無表情のままぽつりと「今日は何も買わなかったの?」と訪ねてきた。女性にしては低い声だ。
「ああ。前回買ったコーヒー豆も本もまだ……」
「使ってない、か。なかなか仕事が忙しいのね」
 彼女は僕を見透かすように言った。なぜ彼女にそんなことがわかるのか?
「雨、降っているわね」
「そうだね」
「傘持ってないの?」
「持ってない」
「そう。ならやむまで待ちましょう」
 僕と彼女はそれから30分ほど、朧月堂の隣のシャッターのしまった中華料理屋の軒先で雨が行くのを待った。僕はスマホを確認して先方からのメールを確認し、彼女は古びた文庫本を読んでいた。なんだか、異質な空間だ。彼女がいる場所はまるで夜が深くなるように感じる。見てはいけない、飲まれてはいけない夜の深淵がすぐそばにあるようだ。でも、僕はその深淵が、彼女の、世界から切り離されたような一人の在り方がただ羨ましくもあった。

……

 それから、彼女は決まって雨の日のときだけ、僕の前に現れた。格好も変わらず、烏の羽のような黒いコートを着ていた。庁舎から少し行った先のベンチで本を読んでいる時もあれば、電車の隣の席に座っていたこともある。神出鬼没、彼女を言葉で表すとしたらこの四字熟語が相応しいだろう。
 ある日、僕は彼女に会った時、思い切って喫茶店に誘ってみた。その日は珍しく早く上がれた日で、少し心に余裕ができていたのかもしれない。彼女は少し驚きながらも了承した。
 店内は朧月堂とはまた違ったジャンルのジャズが流れている。音の勢いは朧月堂のほうは清流、この喫茶店のは激流と表現してもいいかもしれない。店内では仕事終わりのサラリーマンや授業終わりの学生が一人でコーヒーを飲んだりレポートをやっつけていた。僕はその光景に学生時代の自分を重ね、そんな自分に苦笑しながら、彼女に窓際のソファー席を進めた。彼女が目の前にいるからなのか、夜が伸びていくような余裕の表れからなのか今日の僕は安らかな心持ちでいれた。
「注文、何にする?」
「別に。私は水でいい」
 ウェイターがお冷を持ってきた。なぜだか一つしかテーブルの上に置かれていなかったので僕がもう一つ持ってくるように頼むとウェイターは怪訝な顔をして「分かりました」と言って去っていった。厨房のほうに歩いていくウェイターを見送り、彼女のほうへ目を移す。


 彼女は恐怖をたたえた目でウェイターを見つめていた。 


 恐ろしいものを見たというよりかは、自分の悪さがばれていないかどうかを怖がっているように見える。どうしたのだろう? いつも無表情な彼女しか見たことがなかったので僕は新鮮さえ覚えた。
「どうかした?」
「別に、大丈夫よ」
 彼女がうつむき、また僕を見た時には恐怖の色は消しゴムで消されたように、いつもの無表情な彼女に戻っていた。
 そのまま時が流れる。僕はコーヒーを飲みながら街を眺め、彼女は外から薄く聞こえてくる雨音に耳を澄ましながら古びた文庫本を読んでいた。僕は彼女の読んでる本、逆から読めば唾と蜜になるなあなんてくだらないことを思っていた。普段の僕からは想像できないほど、彼女といるときの僕はぼんやりしているようだ。
 彼女が再び口を開いたのは、マグカップの中のコーヒーがそろそろなくなるのではないかという時だった。その時、僕は雨降る街を行く人々を眺めている時だったと思う。
「あなたが守っている人たちを見るのは楽しい?」
「……楽しいというより、むしろ安心するかな。今日も平和だって思えるから」
「そう。ならあなたは他人じゃなくて自分をよく見てみてもいいかもしれないわね」
 彼女はテーブルから身を乗り出して、ネクタイのほころびを直した。不思議と音がしなかった。僕はこの歳になって女性にネクタイを結び直してもらっていると言うことに気恥ずかしさを感じ、顔を背ける。母親を思い出すからやめてほしい。
「あ、ありがとう」
「別に。ねえ、あなたの仕事って、この国の人々の普通を守る職業じゃない? ならあなたは普通って何だと思ってるの?」
「……」
 答えられなかった。確かに僕の職業柄、人々の普通を守れ、と言われることは多い。でも僕はそれが何なのかを考えたことが今までなかった。彼女は僕を一瞥したのち、窓の外に目を向けた。
「普通ってさ、人の数ほど存在するじゃない。あなたみたいに仕事場と家を行ったり来たりするのが普通という人もいれば家に引き籠ったりするのが普通という人もいる。人を殺さないのが普通という人もいれば人を殺すのが普通という人もいる」
「最後のは多数派か少数派の話かな」
「いいえ。でも正直、普通っていうのは異常ね。人間ほど普通を願う人も生き物は存在しないもの。何かの宗教みたい。でなきゃあなたたちみたいな職業ができて、大多数の人の普通を守るために身を削る生贄みたいな人ができるとは思えない」
「……君は、普通を恨んでいるのかい?」
「どうかしら。でもあなたは普通を恨んでいる。いまあなたが身を置いている普通を苦痛だと感じているのよ。だから非現実という刺激を望んでいるんでしょう? たとえ、それが幻想のものであっても」
 彼女は言葉遊びをしているみたいに柔らかく、僕の心の奥底をついてきた。

……

 7月7日。彼女と出会ってから一年が過ぎた七夕の日。東京は雨に見舞われた。僕は同僚と連れ立って雨降る街を歩いていた。少し前に可決された法案の都合上、僕の仕事は前以上に激務になり、朧月堂に行く余裕さえなくなっていた。
「悪い。ちょっと一服してくる」
「ああ」
 僕は傘の森に消えていく同僚を見送った。ちなみに僕は嫌煙家だ。そのまま、色とりどりの傘が水面の上の落ち葉のように流れていくのを見ていると、その流れが止まったように感じた。停止ボタンを押したテレビの画面のように。時間が間延びするこの感覚、彼女が現れたのだ。
「七夕の日に降る雨って何か知ってる?」
「さあ。僕は文学部の出じゃないからね」
「法学部ですものね。……酒涙雨っていうの。七夕の日に会えなかった織姫と彦星の涙が地上にいる私たちのところまで降っているようでしょう」
 僕は隣に立つ彼女の声に耳を傾ける。その声は僕を本来あるべき場所に連れて行ってくれるような、心地の良いものだった。
「ずいぶん、ロマンチストみたいなこと言うじゃないか。普段はリアリストなのに」
「そう? じゃあいつも通りリアリストぽく話してみようかしら。あなた、中国語の部屋って知ってる?」
「あ、聞いたことある」
 彼女は僕の返答を聞いたのか聞いていないのかわからないような間をとって続けた。
「英語しか話せない人を部屋に閉じ込めて、外から記号の羅列の書いた紙を中に入れるの。その紙切れに新しい記号を書き加えて外に出して、それを何度も繰り返す。これが側から見れば中国語で会話してるように見えるわけ」
「要は何が言いたいの? それにこれって人工知能がどうたらこうたらのやつって大学で習ったぞ」
「どんなに近くにいて仲良さそうに見える人たちでもお互いのことをちゃんと理解できてないの。人間皆孤独。だからあなたは自分のことを理解できてないの。人間が生まれて最初に知る他人は自分だからね」

「このままじゃ君、壊れるよ」

 彼女はそう言って、傘をさして去っていった。黒い、烏の羽のような姿が消えた瞬間、世界が急に再生ボタンを押したように動き出し、それと同時にとてつもない喪失感が僕を食い荒らす。喪失感の嵐が去るのを待ってから、顔を上げる。この所作だけでも苦痛を感じた。目が現実をとらえ始める。僕が顔を上げて最初に見たのは、いつの間に喫煙所から戻ってきたらしい同僚だった。未確認生物を見ているような目で僕を見ている。なんでそんな目で僕を見つめているんだ。僕は今それを聞けるような精神状態にないというのに。それでも同僚はお構いなしに、でも恐る恐る口を開いた。

「お前、誰と話してたんだ?」

……

 僕が彼女と過ごした時間は『統合失調症』という名前らしい。優しさが顔に引っ付いた精神科医によると、仕事の大きなストレス、僕の職業が抱える矛盾からくる苦悩、これらから逃避するために彼女という存在を作り出していたようだ。道理で喫茶店に行った時に水が一人分しか出されなかったわけだ。嫌煙家の僕がたばこを持っていた彼女に嫌悪感を感じなかったことも説明が付く。その時は気が付かなかった疑問が幻想という答えを与えられることによって次々に解決していった時は爽快感すら覚えた。
 医者は「まあよくあることですよ。今は100人に1人はなる病気ですから。ゆっくり付き合っていきましょう」と優しく微笑みながら僕に薬を出し、転職を勧めてきた。
 上司は僕を出向という扱いで業務が楽な場所に移してくれ、前みたいに泊りがけで仕事をするということは無くなった。それで、前と比べて時間が空いたわけだが、朧月堂に行くことはいまだにできていない。それはまあ彼女を思い出してしまうからだ。彼女はある意味、僕の鏡のようなものだったのだろう。僕が無意識に目を背けていたこと、そして僕の孤独を形にしたものだったと今になって思う。

……

 彼女が消えてからちょうど1年後の7月7日。その日も東京は雨に見舞われた。2年連続で恋人に会えなかった織姫と彦星を哀れに思う。
 僕は本当に久しぶりに朧月堂に立ち寄った。彼女を思い出したとしても過去のことと受け流せるようになったし、小難しいことを抜きにしてもあの空間は居心地がいい。僕はそこでコーヒー豆と一冊の古本を買った。彼女がよく読んでいた古びた本。明日は休日なので、この本と一緒に夜を明かすのも悪くない。
 僕は雨音と人々の雑踏が反響する外に出た。なんだか時間がゆっくりと流れているようだ。そう思い、ふと上を見ると彼女が立っていた。黒い、烏のような恰好は相変わらずだ。初めて会ったときは傘をさしていたが、今はさしていない。にもかかわらず雨に全く濡れていないのは僕が彼女を幻想のものと認めたからだろう。
 彼女は階段の上から僕を見下ろしていた。だが、その表情は前のような無表情ではない。口角を少しだけ釣り上げて、微笑みを作っていた。僕は傘をさし、階段を登り切って彼女の隣に立つ。今思えば、僕は彼女に別れを言っていなかった。僕が作り出した幻想といえど、彼女がいなかったら遅かれ早かれ、僕の根幹部分は崩壊していたに違いない。だから、僕を救い出した幻想にお礼と餞の言葉を。

「さようなら。幻想の貴女」

『さようなら。現実のあなた』

 彼女は雨霧のようにぼやけて消えていった。最後、彼女が返答したように聞こえたが、きっと聞き間違いだろう。

 僕は、紙袋の中の古本の重さを感じながら、雨降る街を歩いて行った。

《了》

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?