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嵐の前の静けさと

 今日は午後に台風がわたしの住んでいる地域に上陸するというので、朝十一時にジムに行った。その時から雨はまあ割と激しく降っていて、わたしは大きめのビニール傘で上半身を覆うようにして、黒くでこぼこしたアスファルトの上を歩いた。所々に水溜りができていて、道の脇から生えている雑草が花に見えたような見えていないような。その程度に、わたしの気持ちは暗くも明るくもなく、一日の始まりとしては悪くない心持ちだった。
 ジムに着くと数人が運動していて数人がストレッチをしていた。トレーナーの女性は台風だからか今日は人が少ないと言った。トレーニングマシーンを使ったサークルでの運動を二周して、ストレッチを終えジムを出ると、来た時より幾分雨は弱まっていた。雨が降っている空はいやに明るくて、ビニール傘を透過して白い光がわたしに降り注いだ。わたしは汗なのか雨なのかわからないくらいの汗をかいていて、顔にかかる髪は軽い束感が出るくらいに濡れていた。その様を恥ずかしいと思いながらも、帰りにコンビニに寄り低脂肪乳と煙草を二箱買って家路についた。
 家に着くと夫はまだ寝ていた。静かに寝息を立てている気配が寝室の閉じた扉から伝わってくる。わたしは物音を立てないように汗を拭いて部屋着に着替え、ソファで音もなく煙草を吸った。家の中もやはり白っぽく光っていた。
 すると突然カーテンの開く音が隣の部屋から聞こえて、一拍おいた後に寝癖をつけた夫が寝室から起きてくる。夫はいつも前触れもなく起床する。おはようございますと言う夫におはようと返事をして、わたしは途端に寂しい気持ちが心を埋め尽くしたことを実感した。夫が起きてきたということは、この後支度をして仕事に行くということだ。わたしは家でひとりになる。そのことが、仕事を持たないわたしには途轍もなく寂しいことだった。時間を持て余す。わたしはいつも時間の中でふわふわと身体を浮かしている。
 寂しい寂しいとひとしきり夫に言って、換気扇の下で煙草を吸う夫の腕にすがった。それでも時間がくると、夫は手早く支度を済ませて、じゃあ行ってくるねと言って仕事に出掛けてしまう。わたしは嫌だとテレビに向かって言ったけれど、玄関はにべもなく閉まり、夫ががちゃりと鍵を施錠する音が背後に聞こえた。
 わたしは飲みかけのカフェオレを一口飲み、また加熱式煙草のスイッチを押した。手の中でぶるっと機械が震える。夫がいる時はあんなに寂しかったのに、いざ出て行ってしまうと、鍵の閉まった家の中でわたしは諦めのような、妙に清々しい気持ちになった。夫が出て行ったということは、帰ってくるということだった。
 わたしは扇風機に向けて煙を吐き出し吸い込みまた吐き出す遊びに飽きると、読みかけの本を読み始めた。数日前に妊娠する夢を見てから、妊娠出産というのが今のわたしの中でホットトピックスに上がっており、買って本棚に置きぱなしになっていた妊娠出産のエッセイ本を手に取ったのだった。
 本に書かれている妊娠や出産、その後の女性の育児は壮絶なもので、いずれわたしにもできるのだろうかと不安になった。女性が現代の日本という国で妊娠出産育児をすることの大変さを、このエッセイ本を通して垣間見ていた。わたしは卵巣の病気を患っていて今は薬で生理を止めており、妊娠ができない状態になっている。来月、婦人科に行く予約がある。そこで薬をやめて妊娠を望むのか、望まないのか。髪がベリーショートで男のように煙草を吸い、そのくせふりふりの洋服ばかりを好んで着る自分の女性性のようなもののジレンマを、こんなところにも見たような気がした。
 しかし台風は本当にくるのだろうか。今のところ雨はさほど降っていない。風が唸る音も聞こえないし、雷も鳴っていない。これが嵐の前の静けさというやつかと思いながら、わたしは白い壁紙をじっと眺めた。
 三時間ほど熱心に本を読み、時々煙草を吸い、夕方に差しかかったところでお腹が鳴ったので、コーンポタージュとたらこスパゲッティを作って食べた。口をもぐもぐと動かしながらリビングの置き時計を見て、わたしは子どもを産むのだろうかと改めて考えていた。本当に来月薬をやめて妊娠を望むのなら、もう今から煙草はやめなきゃいけないなとか、お腹が大きくなったら今持っている洋服はもろとも着れなくなる気がするけれど、わたしもあのダサいマタニティウェアを着るようになるのだろうかとか、今はこうしてゆっくりご飯を食べているけれど、子どもが産まれたら生活のあらゆることが一変するのだろうなだとか、たらこスパゲッティを食べながらするそれらの想像は、どれも夢のように地に足がついていないように思えた。
 そんなことを考えて食事を終えると、次第に雨が強くなってきた。風も吹いてきて、窓の外では水の流れる音がしきりに鳴っている。
 わたしは、と思う。わたしは子どもを作って産みたいなと思う。たとえ本のようにつわりがひどくても、マタニティブルーが悲惨でも、ダサい洋服しか着れなくなっても、出産で腹を切ることになっても、わたしはわたしと夫の赤ちゃんに会ってみたい。本の中の赤ちゃんとの邂逅のくだりを読んでぼろぼろ泣いたわたしは、そんな夢のような現実が目の前にあらわれたらどうなってしまうだろうか。
 わたしと夫の赤ちゃん。わたしは、いつか産めるだろうか。そもそも病気で妊娠ができるかもわからない現在、わたしにとっては未だ夢のような話でも、そういう現実がいつかこの身に訪れたなら。そんなことをぼうっと考えながら、わたしは窓の外を見ている。
 外は少しずつ嵐になって、嵐はいずれ去り、夫も帰ってくるけれど。そうやってわたしたちは未来に進んでいるのだと、吹き荒れる風の中に、今日生まれた気持ちをふわりと乗せた。

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