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夢の中で息をする

 朝起きると雨が降っていた。一日予定のない今日にやろうと思うことはたくさん思いつくのに、どれからしたらいいのか何をすべきなのかがわからず、わたしは結局ソファで横になっていた。時計を見ると昼過ぎだった。窓の大きなこの部屋は、雨だというのにいやに明るかった。
 ジムに行こう、衣替えをしよう、今日は書きかけの小説を書こうと思った。結局何もしないまま、わたしはソファで眠ってしまった。
 夢を見た。現実の部屋では隣家からの物音がやたらとうるさくて、夢の中でそれは反響したかのように大きかった。夢と現実の境目で見る、ふわふわとした夢だった。
 わたしは夢の中で狭い屋根裏部屋にいた。その部屋は真ん中がくり抜かれて階下とつながっていて、それが何層にもなった塔のような建物の中だった。
 狭い屋根裏部屋にはクマの大きなぬいぐるみがあった。木でできた温かみのある部屋にはブランケットやラグが敷かれていて、真ん中の空間にはずっと下まで続くロープが吊り下がっていた。とにかく音がうるさく響いていた。
 わたしはこの最上階の部屋に身を屈めていて、登ってくるかつての旧友との間に不倫の気配を感じたり、裸でロープを伝ってくる同僚の女の子に性的な匂いを感じていた。その奔放な雰囲気とラグの質感に、なんだかヒッピーみたい、と思った。
 気がつくとわたしは最下層の部屋にいて、上へ登らなければならないこともあった。そこにはまたもや二十代の時に恋をしていた男性がいて、足場の悪い暗いその部屋で、手を取り合ったりした。そしてそこにもやはり大きなクマのぬいぐるみが見ていた。
 夢の途中、どこで目が覚めたのかわからない。とにかくわたしはこの塔の中から動けないまま、各階でロマンスを繰り広げていたような気がする。何の前触れもなく目が覚めた。現実の部屋は明るく、窓の外は白く曇っていた。雨は止んでいた。
 起きてしばらくは呆然としていた。ソファから起き上がって水を飲んだりトイレに行ったりすると、足の裏のフローリングの感覚にこれは現実だと教えられた。わたしは昼寝をして起きると、夢と現実の境がわからなくなる。とても不安で居心地がよくて、夜に夫が帰ってきてもふわふわとしていることがよくあった。
 ぼうっとしていると玄関の扉をコツコツと叩く音が聞こえた。なぜインターホンではなく扉を叩くのか。おそるおそる覗き窓を見ると宅配便だった。宅配業者の男性はインターホンを押したが鳴らなかったと言う。男性が去った後にボタンを押してみると普通に鳴った。わたしは無駄に怯えさせられたことに舌打ちをした。心が揺れていた。わたしは知らない誰かが来訪してくることが苦手なのだ。宅配物の中身は誕生日に友人が贈ってくれたお菓子の詰め合わせだった。
 焼き菓子が整然と並んだ箱を見つめながら、とりあえず紅茶を淹れようと思い立ち、湯を沸かした。換気扇の音、ぐらぐらと鳴るやかんの音。耳に響く音が大きい。わたしは心を落ち着けようと思った。
 メープルの香りがするルイボスティーをカップに注いで、届いた菓子と並べてみた。アップルシュトロイゼルと記されたケーキを一つ食べてみると、甘いりんごの味がした。小さく丸いクッキーを口に入れると、バターと塩の味が広がった。紅茶を飲んで、わかりやすく身体から力が抜けたのがわかった。
 辺りを見回してみる。時刻は夕方四時。窓の向こうの空は晴れていて、雲間から青色が少し覗いているけれど、部屋はさっきより幾分暗くなってきていた。ソファに寝転ぶ。寄り添うようにしてソファと一体化する。ソファの方がわたしに来てもらいたがっている。
 今日はこの後何をしようかと考える。海外ドラマの続きを見たいし、文章の続きも書きたい、衣替えもしたいと思う、夕飯は何を作ろうか。
 こう考えている今は現実なのか、まだ少し自信がない。音がうるさい、音がうるさい。隣の家の、時計の音の。わたしは雨の中を泳ぐように夢を見た。
 ソファに寝転ぶわたしの意識の中で、大きなクマのぬいぐるみと目が合う。黒い目は見ている、わたしを。外の雨は、もう止んでいる。



photo by R-photography.

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