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シロップの中身

 レモンのはちみつ漬けを作りたくて、昨日の帰りにレモンを二つ買ってきた。
 よく行くバーで、はちみつレモンのカクテルを期間限定でやっていて、マスターに作り方を教えてもらったのが一昨日の夜だった。グラスに入った甘酸っぱいレモンの輪切りを齧りながら、わたしも作ってみようと思った。

 昨日は昼から夫と出掛けて行って、夫の仕事先の人のお家へお邪魔した。続々と集まってくる人は総勢十名弱。小さな子どもが二人。大きなテーブルには次々に料理が運ばれてきて、台所では女性陣が慌ただしく動き回り、男はテーブルでずっとお酒を飲んでいた。
 女のわたしは台所を手伝わなければいけないような気がして立ち上がり、いざ台所へ行くと何をしていいのかわからず、うろうろしては棚にぶつかったりしていた。
 大人数の話し声が響く家ではどこに行っても所在なく、それでいて居心地が悪かった。結局わたしはリビングで子どもたちとずっと遊んでいた。子どもはかわいくて、わたしのほうがこの子たちに相手をしてもらっているのだと思った。
 時計が夜七時を過ぎる頃、わたしは階下にあるもうひとつのキッチンで、一人煙草を吸っていた。蛍光灯の灯りが妙に白くて、換気扇の回る音と二階で笑い合う人たちの声が聞こえていた。
 換気扇の唸る音、明るい小部屋に立ち上る煙。わたしは床にぺたりと座り込んで膝を抱えていた。一度座ってしまうと、そこからもう動けなかった。
 上の階では夫も含め、たくさんの人が喋って笑っていて、わたしはどこに行っても役立たずだった。しまいには輪の中にただいることもできず、今ここに座っている。そのことがとても残念だった。わたしは普通のことすらできないのだと思った。そういえば、前にも大人数の飲み会から帰りたいと夫に言った際、これが普通だと言われたことを思い出す。わたしは普通じゃないのだ。そのことを、夫にも受け入れてもらえない。薄く開いた扉の向こうで、飼い猫が目を光らせてわたしをじっと見ていた。わたしも睨み返した。猫は気ままにどこかへ行った。
 帰りの電車では色んなことが気になった。わたしは夫と些細なことでケンカをして、駅で別れて別々に帰った。帰りのスーパーでレモンを買った。二つで198円だった。
 家に帰ると、怒りと寂しさと疲れで混乱した。身体のどこかをしきりに叩いていないと落ち着かず、わたしは必死に自分の横っ面を殴り続けた。その間夫はずっと換気扇の下で煙草を吸っていて、わたしはずっと自分を叩いていた。
 どうしてわたしはこうなのだろう。どうしてわたしには普通のことができないのだろう。そのことが悲しかった。わたしの病気はいつ治るのだろう。わたしはどうしてこんなに駄目なのだろう。
 昨日の夜は処方されている全種類の薬を総動員して飲んだ。化粧も落とさずソファで寝て、起きると首と頭が痛かった。
 夫は起きると立て続けに煙草を吸って、仕事に行く準備をした。行き際に、わたしにキスして愛していると言った。きっと夫はわたしを愛していないと思った。わたしはわたしを愛していないから。悲しかった。
 わたしは鎮痛剤を飲んで、溜まっていた食器を洗った。まな板と包丁をきれいに洗って、レモンの皮をむいた。輪切りにして、瓶の中にはちみつと交互に置いていく。最後に瓶の口まではちみつでいっぱいに満たすと、きらきらと琥珀のように輝いて見えた。
 余った皮でレモンのリゾットを作って、ひとりで食べた。チーズとオリーブオイルと爽やかなレモンの風味が広がって、とてもおいしかった。わたしは昨夜発狂したことを忘れたみたいに、食事をしながら痛む頬をさすった。

 マスターが言うには、はちみつに漬けて四日は置いたほうがいいらしい。明日明後日、明々後日。わたしはどこに行くのだろう。はちみつ漬けができたら、はちみつレモンを作って飲むのだ。頬と太ももの痛みはとれるだろうか。治るものと、治らないものがある。そんなことはとうに知っている。

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