「批判的思考」なんて勇ましいコト、私は言わない
“?” とか “!” とか、“☆” とかアンダーラインとか。私はいつも、色々と衝動的に書き込みながら本を読む。でも、↑こんな風に表紙の言葉にマルを付けたのは、たぶん初めてだ。最近出た、ちょっと耳新しいサブタイトルの本「吟味思考を育む」ーーー“吟味思考”って、何だ?
同書の編著者の山脇岳志さんが、その問いに答える論考を昨日「朝日新聞GLOBE」に載せた。メッチャ共感なので、後で全文お読み頂きたい。
クリティカルシンキングは、そりゃ大事だけれど
情報教育の現場では、やれ「メディアリテラシーとは、情報を [批判的] に読み解く力です」とか、「ネットや友達からの情報は、鵜呑みにせず [批判的] に受け取りましょう」とか、非常によく言われている。けれど私は、そんな言い方 正論だけど有害だから、教室では使わない方がいいよなぁ…と思い、20年ぐらい前から自分の授業では一度も言わずにきた。
[批判的] 思考とは“クリティカル”シンキング(Critical Thinking)の直訳で、学問的にはその訳し方でもOKだけど、世間的にはNGだ。世間では、「批判」という日本語には「否定、悪口、イチャモン、ディスり、攻撃」といった後ろ向きの語感がまとわりついてしまうから。
“クリティカル”シンキングって、そういうことじゃない。もっと前向きな言葉だ。でも、[批判的] 思考に代わる言い方が、見つからない。ずーっとそれで悩んでいた私の目の前に、この本の表紙が [吟味] 思考という代案をドンっと提示してくれた。
そう、クリティカルシンキングという思考態度は、狭い情報ですぐ決めつけず・思い込まず、吟味して窓枠を拡げてもっと広い景色を見よう、ということなのだ。甘〜い検索アルゴリズムの言いなりで一日中ケーキばかり食べていないで、ちゃんと自分で野菜も食べて情報の栄養バランスを取ろう、ということ。真偽不明の怪情報や偏った断定情報が氾濫する今、これ以上重要な教育はない。
実は山脇さんも、この訳語については頭を悩ませていたことを、昨日の記事の中で告白している。
【 GLOBE の記事より 】
訳語に違和感はありつつも、本の企画段階から1年近くは、本のタイトルに、「批判的思考」という言葉を入れようと思っていたのである。
その考えが変わったのは、テレビのキャスターから転じて、学校現場で豊富なメディアリテラシー教育の経験をもつ、下村健一さんをインタビューしてからである。(インタビューは同書に収録)
インタビューの中で、下村さんは、
ーーー私は、[批判的]に考えよう・受け止めよう・読み解こう…といった正論を教室で示すとどんな拒否反応が発生するかを、かなりショッキングな実例で山脇さんに語った。
実際、小学校から大学まで訪問授業やリモート授業で幅広い年齢層の子ども達と接していると、「何か主流と違うことを口走ってしまったら、皆の【批判】が怖い」という異様なほどの批判恐怖症が蔓延しているのを、肌で感じる。友達から批判されるのも怖いし、友達を批判して気まずくなるのも怖い。詳しくは上記の記事や書籍に譲るが、代わりに直近の新たな事例を1つ挙げるとーーー
「は?って顔されるの 怖いじゃないですか」
つい先日、今教えている大学のある少人数講義の履修生から、鋭い観点の質問を個人LINEで受け取った。以前にも同様のことがあった優秀な学生なので、「それ、授業で共通の学びにしたいから、皆の前で君が訊いて僕が答える形にできない?」と要請したところ、「なぜ皆の前でなく、個人LINEを選ぶのか」を吐露する返信が届いた。
この学生は別に、コミュニケーションが苦手なおとなしい若者ではない。普段の他愛ない会話は皆と明るく交わしており、むしろ積極的だ。それでも、自分の意見は言えない。議論の末に論破されるのが怖い、というレベルではなく、ただ「は?って顔されるの怖い」から。
そんな現実の中で、勇ましく [批判的]思考ノススメ などしても、恐怖症の子ども達には「ひぇ〜、そんなメディアリテラシーなんて、私には無理無理!」という逆効果しかもたらさない。
正論の一本槍は、学びの入口を閉ざす
以上のような趣旨の話を私がインタビューで答えると、山脇さんはこんな質問の形でやんわりと反論をして来られた。
【 GLOBE の記事より 】
筆者は下村さんに「相手の意見を批判したり反論したりすることは、相手の人格を否定することではないと教えてもよいのでは」と問いかけた。
しかし下村さんは、「活発な学校、自立心の強い学生や児童生徒たちなら、そのように根本から教えていく方法こそ採るべきでしょう。ただ、これまで多くの学生や児童生徒を教えてきた僕の皮膚感覚でいうと、そういうタフな方法は怖くて実践できない若者の方がずっと多い」と話した。正論の一本槍で授業をすると、先ほどの学生のような反応にブロックされてしまうという体験談は、説得的だった。
「相手の意見への批判は、人格否定ではない」と伝え続けていく必要はあるが、最初の入り口である「批判的思考」という言葉だけで、心を閉ざしてしまう子供たちや学生が多いのなら、むしろクリティカルシンキングを学びにくくなるのではないか、と思うようになったのである。
かくして、この本のタイトルから「批判的思考」という言葉は退場し、代わりに「吟味思考」という言葉が編み出されることと相成った。
これは、決して無意味な言葉遊びではない。「批判」という訳語から子ども達がどうしても感じ取ってしまうネガティブな匂いが、この言い換えによって一掃される効果は非常に大きい。
これで、入口の敷居はグンと下がった。子ども達がビビらずに “Critical Thinking” 本来のあり方に近づく門戸は、広がった。ただ代わりにしっかり固めなければならないのは、《じゃあ、「吟味思考」って何なの?》ということだ。「批判」という単語が(ネガティブだけど)わかりやすいのに対し、「吟味」という単語は(ポジティブだけど)わかりにくいから。
「吟味ってどうやるの?」と、子ども達に訊かれたら
情報をただ「吟味しましょう」と言われても、子ども達はどう思考すればよいのかわからない。具体的な方法論(How)の指導が大切だ。
例えば、ちょうど先週あたり 全国6割以上の小学5年生の教室で授業を終えたばかりの「想像力のスイッチを入れよう」という単元(国語科=光村図書刊)では、私が考える“吟味”の取っ掛かりとなる[4つのメソッド] を教科書と動画副教材のセットで紹介している。
メソッドの個々の中身については上記の動画をご覧いただくとして、それらを私なりに約言すれば、「情報は[スイスイスイッチ]で受け止めよう。それがクリティカルシンキング」ということだ。
(これは下村の個人的見解で、山脇さんが「吟味思考」という言葉に込めた思いのオフィシャル解説では全くないので念のため!)
カチカチスイッチよりも、スイスイスイッチで
[スイスイスイッチ] とは、何か? およそ私達の《情報の受け止め方》は、この2パターンに大別できるだろう。
左図◆ 面倒な時や余裕が無い時、不安で仲間が欲しい時……
接した情報をすぐさま「マルかバツか/信憑性100%か0%か/オンかオフか/白か黒か」と二者択一でカチッカチッと決めつけ固定してしまう、[カチカチスイッチ]。
右図◆ 吟味する姿勢がある時、自立する意志がある時……
接した情報をじっくり「マルからバツまで/信憑性99%から1%まで/大有りからほぼ無しまで/白っぽいから黒っぽいまで」のグラデーションでスライド式にスイーッスイーッと滑らせる、[スイスイスイッチ]。
(常に「その時点での受け入れ度合い」は判断するが、そこに固執はしない。)
前者は、一見即断力が優れているようで、思考停止や狂信・分断・反目に直結しやすい危うさをはらむ。総天然色に満ちたこの豊かな世界を、わざわざ白黒コピーしてから眺め、フェイクニュースに踊り、陰謀論にハマる。
後者は、続報に柔軟に対応し、窓枠をその都度広げて、より広い視野を獲得してゆく。この「スライド式スイッチを冷静に左右に動かす所作」こそが、クリティカルシンキングだ。そこには、結論を急がず「まだわからないよね」という構えを持ち続ける強さ(ネガティブ・ケイパビリティ)が求められる。
ネット社会 黎明期の混乱に、そろそろ終止符を
[カチカチ] 型か [スイスイ] 型かは、人によって決まっているのでは無い。無論、どちらかの傾向を強く持つ個人差はあるが、誰もがその時々の状態によって [カチカチ] でしくじったり [スイスイ] で落ち着きを取り戻したりするのだ。だからこそ、後者(=クリティカルシンキング)の思考態度をより確かなものにしていくために、メディアリテラシー教育が存在する。
今回の書名に選ばれた「吟味思考」が「クリティカルシンキング」のベストな訳語なのかどうかは、まだわからない。ただ少なくとも、五輪競技風に言えば現段階での“暫定1位”ではあると思う。
このまま1位の座に留まって、日本のメディアリテラシー教育界でこの言葉が定着していくのか、それとも今後もっと見事な選手(言葉)が登場して1位を塗り替えていくのか。はたまた、最初に出場した「批判的思考」が頑固なジャッジで1位に居座り続けるのか。ーーークリティカルシンキングへの社会の理解度を左右する重要な因子として、ここは注視していきたい。
何より肝心なのは、情報キャッチボールのエラーで社会の混乱・分断・対立がこれ以上深刻化するのを、阻止すること。そのために、クリティカルシンキングがもっともっと社会に広まることだから。