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AIについてゆるく考える

このところ、文章で動画を作成できるAIの進歩が驚異的で話題になっている。ChatGPTが登場して以来、僕の周りでもAIの話が出れば、例にもれず「作曲家の仕事が奪われるかもしれないね」という論議になる。

もちろん、AIの是非や功罪については深いテーマなので、今回はそれは置いておこう。

僕自身は、音楽を作る行為自体が生きていて一番楽しいので、「それをAIに任せるなんてとんでもない!」というスタンスなのだが、テクノロジーの進歩と共に残るべきものが残り、そうでないものは淘汰される・・・という世の理には逆らえないので、少なくとも僕が生きている間は「残る側」に立ち続けたいと思うばかりだ。

普段アシスタントにお願いするような作業や、経理や制作管理などの事務仕事は、ぜひAI先生にお願いしたい。トニー・スターク(アイアンマン)が使っていたJ.A.R.V.I.S.のように、「"思考"以外の"お膳立て"を全面的に担ってくれる」万能の執事AIが理想だと思う。何ならロボット型で、未来デパートの道具を持っていて、猫型のデザインをしているならなお理想的だ。

画像や動画の生成AIは「いかに違和感を無くすか」「どれほど自然に見せるか」に焦点をあてて進化している。違和感が無いほど美しい。

音楽の場合はどうだろう?と考える。僕が作曲に関わる中で常々感じることは「魅力的な違和感」「身体性から生じるエラー」の重要性など。
楽器の演奏も、人間の実力が試されるギリギリの限界によって魅力が生まれる。ギリギリの部分で揺らぎやエラーが生まれる。

結局、違和感を無くせば無くすほど作品は平凡になってしまう。
そしてAIは僕の40年分の人生を生きていない。

とはいえ、僕はテクノロジーの進歩を個人的には歓迎していて、楽観的に捉えている。淘汰される存在になろうとも。だって面白そうだから。

ただ、上記のような、違和感の解釈、予測との対話、計画通りの進行との衝突、呼吸。再現できない要素。これらをAIが理解するには、もう少し時間が必要だろうと思っている。現状、音楽の生成AIが(扱うデータ量は圧倒的に多いはずの)映像生成に遅れを取る原因は、本質的にはこの違いなのでは・・・と感じる。

そんな技術的課題も数年後にはクリアされて、素晴らしい作曲AIと作詞、編曲AIが、ディレクターAIのイメージ通りに素敵な音楽を作る未来がやってきそうだな。
その曲に「イイね♡」するのも、ディスって炎上するのも実はAI、なんていうディストピアな世界もそう遠くはなさそう。想像できる未来は必ず実現可能なんだって、偉い人が言っていた気がする。

その頃には、このnoteも近藤AIが書いているはずなので、僕は持て余した時間でピアノでも弾いて余生を過ごそうと思います。猫型のAIロボットと一緒に。


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