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ヤリヤル人の生態観察

私が「HELP!」という、人を助けますプロジェクトを始動させて、はや半月ほど経った。

プロジェクトの説明にビートルズ「HELP!」の歌詞「手伝ってほしくて、でも誰でもいいってわけじゃなくて、でも誰かが必要なんだ!」という和訳の歌詞を引用したんだけど、イメージしたのは、依頼者の姿だけではない。 これは私の叫びでもある。

プロジェクトを通して連絡をくれた人と話したり、実際に依頼者に会ったわけだが、みんな感心した様子で褒めてくれる。「人を助けたいなんてスバラシイ!」と言ってくれるのだ。

まさかそんなはずはない。そんなキレイなものではない。私が人を助けたいというだけで動いているはずがないのだ。救われたいのは私の方だというのが、このプロジェクトの本当のところだ。

要はやりたいことをやっている。やりたくてやってる。でもそれが一番良い事なんじゃないか、っていうのも、ひとつ私が辿り着いた結論だった。

やりたくてやってる人っていうのは何か良い感じだ。これはずっと前から気が付いてはいた。好きなミュージシャンとか、起業している人とか、海外で暮らしちゃう人とか、みんなそっち側の人間だと思っていた。もちろん、雇われてようが何だろうが、生き生きしている人は皆そっち側だった。

何でそんなに器用に、やりたいことをやれるのか不思議だった。私はほぼ満点のHSS型HSPってやつで、1日乗り切るだけでも必死だったから、すごいなーと、他人事として遠くから眺めるように思っていた。幼い頃から波のように押し寄せる躁鬱にも似た激しい気分の乱高下に戸惑っては、解決しないまま朝を迎えて、また乱気流の飛行機とかジェットコースターとか、そんな乗り物で過ごすような毎日だった。

でも経験を積んで、徐々に先ほどの考えは逆かもしれないと気が付いた。やりたくてやっていないと、全く波に乗れないから、だからみんなソレを選んでいる。やりたいことをやってる人々は、必ずしも器用なだけではないのではないか、と。やりたいことをやっていないと、どうにかなってしまいそうだからやっているのかもしれない、と。

こんな不器用な人間が、よくも器用な人間のフィールドでのさばっていたものだと思う。すごくないか自分。全然合っていない環境で15年くらい働いた、アッパレだ。そして同時に、とっても恥ずかしくもある。でもそれはそれでいい感じだったということにしようね、お疲れ様。

調子の波ってものは、大なり小なり、日常のあらゆるところに蔓延していて、ちょっとしたことでもウネリが変わってしまうから要注意だ。気を付けて蔓延防止措置をやっていかないと、その後感染が広がるかどうかが決まってしまう。

5月18日に、宗像恭子さんという、大学の先輩の写真展を観に行った。ギャラリーに行くとご本人が迎えてくれて、タツノリ(私の旦那さん)の大学時代の同級生だから、二人は楽しそうに話してた。ファッション誌の写真家さんで、ご自分のスタイルがあって、カッコよくて素敵な人だった。

で、遊びに行かせてもらったお礼を伝えようとインスタでDMを送ろう。となったわけだが、そうすると、宗像さんが私のインスタページを見るかもしれない。だからあらかじめ、恥ずかしくないように、何となくオシャレな写真を上げといた方が良いんじゃないか。何でも良いからオシャレ写真を載せようと、帰宅後おしゃれな何かを探してみた。

でも全然調子が上がらない。オシャレな写真も結局撮れない。宗像さんにステキだと思ってもらうための写真。よく考えると、一体何なんだソレは。そんなものはこの世のどこに存在しているのか。宗像さんと少し話しただけのくせに、良く思ってもらいたいというその欲望も、意味不明すぎて超コワい。恥ずかしくないように取り組んだことが、恥ずかしいことに繋がってる。Road to 恥、Roadtrip of 恥、恥さらしの恥道。

またもやとっ散らかったが、まとめてみると、カッコイイ人や楽しそうに生きている彼らの共通点は、ヤリタクテヤッテルということらしい。よく考えれば宗像さんがカッコよかったのもそれだ。


写真展の被写体の中に、kienさんというモデルさんがいた。

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※写真右手、金髪・ヌードの方がkienさん

死ぬほど繰り返して見た、藤井風「青春病」のMVに出演されていて、偶々彼女のことを知ってホレボレしていた。宗像さんが撮影したkienさんも滅茶苦茶カッコよくて、見惚れていると写真展に他のお客さんが入ってきた。その人もkienさんを見に来ていて、「kienさんは両方持ってるからカッコイイわよね」という会話が聞こえてきた。

ふーん、そうかー、そういう風に感じるんだー、と思った。私がkienさんをたまらなくカッコイイと感じるところとは、何かが違う。kienさんは確かに、アンドロジナスな雰囲気を醸し出している。性別を超越している感じ。

しかし私が惹かれているのは、彼女が両性具有的だからではないと気が付いた。彼女の表情や態度に、明確な意思を感じるから好きになったんだ。

腋毛を剃っていない、上半身裸の写真が展示されている。彼女には、人からこんな風に思われたい、っていう欲がない。少なくとも、その写真にはそんな欲が写っていなかった。そうしたくてそうしてる姿、ありのまま生きる力。なんてカッコイイんだろう。

ああ、長らく苦手に感じていたものの正体はそれだ。私はこう見られたいとか、他人をコントロールしようとする欲が苦手だ。やりたくないことをやってる時、自分に自信が無い時は、何せその欲に苦しめられる。だからその欲から解放されている人にどうしようもなく惹かれるのだ。

写真の向こう側からほと走る、彼女のヤリタクテヤッテル意思の力に圧倒される。誰にどう思われようが、やりたくないことはやらない、やりたいことをやるという態度がたまらなくカッコイイ。そんな写真展でのふとした出来事で、私がカッコイイと感じているものの正体は、生命力のような気がしていた。

いつもオリジナリティのある人に憧れるのもそれだ。ヤリタクテヤッテル人は生き抜く力がムンムンだ。そういう人は逆風の突風が吹いてる時でも笑ってる。だからぶっ飛んでると見られることもある。彼らは異質な存在として認識されていて、結局それがカリスマ性とか憧れとかそんな風に偶像として捉えられる事もある。

ヤリタクテヤッテル人はその後どうなるかというと、そのまま楽しそうにしているだけなのだが、周りから楽しくなりたい人たちが寄ってくる。そうやって世界を広げているようだ。ただの友達付き合いなら良い感じそうに見えるが、「ビジネス=お金が絡む」と、「楽しくなりたい=お金」と思ってる勘違い野郎も寄ってくるから大変そうだ。

ヤリヤル人の皆さまは、スタート地点において、必ずと言っていい程やりたいこととお金を結び付けていない。義務感が生まれてくると、どうしてもシカタナクヤッテルことも生まれるから、問題は大抵そういう時に起きてる。

私は大学のころ、ユナイテッドアローズが大好きだった。重松さんの役員面接で緊張しすぎて落ちたけど、就活で応募していたくらい好きだった時期があった。キャットストリートのChanges United Arrowsが特に大好きで、小遣いをはたいては、足繫く通った。

しかしいつしか、ユナイテッドアローズに謎のオリジナルブランドが台頭してしまってから、一部のストアを除いて、あまり好きじゃなくなってしまった。Changesも無くなってしまって、全然ワクワクしない、謎のオリジナルショップになってしまった。カッコよく大きくなるって、難しい事なんだなぁと思っていた。

ちょっと逸れちゃったけど、何が言いたいかというと、"ワクワクする"ものと、"そうではない"ものについてだ。ほとんどのセレクトショップには、今もかろうじてヤリタクテヤッテル人が作った"ワクワクする"製品も少しずつ並べてあるが、ほとんどが利益率の高い"そうではない"商品ばかりを置いている。

それはナントナクヤッテル人、もしくはシカタナクヤッテル人、ヨクワカンナイケドヤッテル人によって作られているモノがほとんどだと感じてしまう。次第にそういう場所には行かなくなってしまった。昨年コロナの影響でワールドのセレクトショップが一斉閉店した時は、しょうがないね当たり前だねと感じていた。

いつだって興奮するのは、ヤリタクテヤッテル人の生息地だ。そこには、生命の息吹が至る所に感じられる。要は生命力があるってことなんだ。そういう空間は最高だ。作り上げた人の生命力を借りて、自分も力強く生きているような錯覚を感じられるからだ。

素敵なカフェやホテルの空間とか、美味しいものが食べられるレストランとか、みんなが大好きな場所も全てがその法則に乗っ取ってるはずだ。命の息吹がビュンビュンだ。

私はその空気を感じ取ることがものすごく得意だから、もちろん、逆な場合の窮屈感もヒドイものがある。自分が毎日暮らすお家や着る洋服にこだわりたいのもソコだと思う。ヤリヤル人によって作られたものを揃えておくことは、生きるために必要なことなのだ。

ベストな方法は、自分自身がそのヤリヤル人になってしまうことだ。それが一番楽しそう。しかしそこに必ずはばかる壁というものがある。それが「人の目」と「お金」問題だ。

これだけヤリヤル人がマイノリティなのだから、それになるのは並大抵の事ではなさそうだ。ヤリヤル人は希少な存在として、わざわざ雑誌に取り上げられたり、何かとゲストに呼ばれたり、人前で芸をしたり、偶像として崇められているではないか。若者の間で「神」って言葉が流行ったのも、生命力を感じている事を表現している気がしている。

世にいう「推し」の概念もそうではないのか?あれは人々がヤリヤル人を応援しているという構図だ。「私の分まで思いっきり頼む」って感じで。

私もシカタナクお金を稼ぎつつ、休日にヤリヤル人になることでヤリヤル人風味の人生を楽しんでいた。コーラ風味のガムも美味しいし、焼き肉のタレをかければ何でも焼き肉風味になる。それも私の人生で私なりに平穏として見つけ出したはずの、価値のある生き方だった。

でも、いつもどこか満たされないでいた。私の人生って、カッコイイ人に便乗しているだけだなー、と常に思っていた。そして自分の人生が加速すればする程、そんなやり方ではやり切れなくなってしまった。

そんなわけで新しい生活を始めてみたわけだ。実現に至ったのは、更にこんな風に考えるようになったからだ。「問題だと思っている問題こそ、思考のトラップなのだとしたら・・・」

その一つの例として、面白い大人が持ってるものは、実は「お金じゃない」んじゃないかって思ってきたということがあった。先日、ライターとして人生初の取材というものをさせてもらったんだが、その人が持ってるものは一見お金にも思えた。スゴイ肩書の方だったし、スゴイ家に住んでいたから。でも実際話してみると、そうじゃなかった。

彼が持ち合わせていたものは、知識と経験と、人間性だった。そしてそれらさえ持っていれば、どんな状況になっても生きていけるものばかりだった。           

またコレだ。生命力ってやつだ。

グルグルしたが、結局ここに行きつくのか。

やっぱり基本、本能は生きる方向に向かってる。生命のみなぎる方に。生きることにしかワクワクしないように出来てるのだ。これって凄い力だ。  だからワクワクしていないと、気が滅入るんだと思う。やりたくないのに無理やりやっちゃうと、死にたくなっちゃうんだと思う。ヤリタクテヤッテルを選択した方が、俄然良いってことになってるのだ。


先日、大好きな坂口恭平氏にTwitterで絡み、「人間として生きるとは何ですか?」と質問してみたら、ソッコーで返事が返ってきた。


「楽しむ」


自分の楽しみを知れる場所。人の楽しみに寄り添える場所。苦しい時に、苦しいなと言える場所。泣いても良いし、笑ってても良い、ヤリタクテヤッテル、ヤリヤル人になれる場所。

そういう空気感を追い求めて、プロジェクト「HELP!」を取りあえず、しばらく続けてみようと思っている。



気が向いた時、サポートしてくださるとウレシイです。