小さな世界の綻びを治す、だけの話。
前回の記事を書いてから1年が経っていた。
久しぶりにここに書く。
自分の思考を、外にぶちまけたくなった時が幾度となくあった。
でも今日ほどではなかった。
こんなに溜めて、溜めて、溜めて、じゃないと気持ちを外に出せない人間なのだということも、今日になってようやく納得がいったくらい、私は溜め込むタイプらしい。まったく自覚がなかったわけでもないが、ここまでとは思わかなった。
この1年間、いろいろな変化があった。
でも、たいていの変化は、それなりに順応し、対処することができたと思う。
それは「まわりも同じ」だったから。
たとえばコロナ禍によるいろんな変化は、まわりの人々も同じように変化を強いられ、自分の受け入れ方も、まわりを見ながらそれとなくついてこれたような感じで、
仕事のこと、家族のこと、経年に伴う少しずつの変化には、自分の世界の中の同じようなサンプルを無意識に探しながら対応してこれた。のだと思う。
ところがそれは突然にやってきた。長女の不登校である。
といってもまだ10日程度で入り口に立ったばかりなので「不登校ビギナー」なのだけど。
この数日の変化で、私は自分の立ち位置を完全に見失った。というか、立っている場所が崩れかけた。もう少しで落ちそうだった。絶望、とかいう名前のついた底辺に。
それで、いくつか気がついたことをここに記しておく。
本当に不思議だ。
不登校を起こしている本人は、今までとさほど変わっていない。
むしろ今までどうり、ちょっとずつ変化していくうちに、「学校に行かない」という行為が表出したとたん、変わったのは大人の態度のほうだったのだから。
もちろん私もとまどった。
でも、実は不登校の事例は、3歳上の長男の友達で目の当たりにしてきたので、「娘もなにかズレを感じたのだろう」と思った。
行けない理由を尋ねもしたが(あまり意味ないんだろうけど)、そんなはっきりとわかるわけもなく。第一、娘本人がわからないのだから。
現在進行系なので、書きながらちょっと苦しくなるのだけど、進みます。
不登校は問題なんかじゃない。結論としては、私はそう思いたいのね。
実際、身近に不登校を経験した親御さんを知っているし、教育者界隈でも、行かない選択肢を肯定的に捉えたりしている。
大人は誰しも、頭ではわかっている。
それが「身内」となると、どうも話が別になるらしい。
とくに私の親世代にとっては。
ここであまり具体的に書いたりはしないけれど、
要するに「不登校は問題であり解決すべきこと」だというOSの世代。
それを正すのは親の責務であり、できないのであれば専門家に投げろという主張。
本当に、このOSには何を入力しても「でも私たちの頃は…」しか返ってこない。
要するに甘えだと。厳しさが必要だと。親の苦労を理解させ納得させるべきだと。
それ、あなた達の美徳ですよね。
・・・とこういう風に書くと、何かものすごく乱暴で、聞き分けのない勝手な人々のように映るのだけれど、そうじゃない。
何がショックだったかって、これまでは娘に対し、子供の人格を尊び、やさしいまなざしを向けてくれていた人達だった、という事なのだ。
そして、
「なぜ学校に行かないのか」
「このままではダメな方向にいく」
「早く手を打たないと」
という主張を、私からすれば「まだたった10日」の娘のサインを、畳み掛けるように投げつけてくる。
娘にではなく、親である私に。
そうして私は、いつの間にか、せまい、暗い、小さい箱の中で、出口を探していた。
考えてみれば、表面的には「そうですね」と合わせればいい事なのかもしれない。あとは自分の思うようにやればいい事なのだから。
でも思い返してみると(まだ昨日のことだけど)、そうやって問題を是正しようとする人達を前に、私はこらえきれなくなった涙をマスクの中に落としながら、何だかわからない剣を振り回していた。
今思えば、その意味はこうだ。
どうして一言「大丈夫だよ」と言ってくれないの。
どうして彼女を信頼してあげないの。
と。
不思議だ。
それは私がずっと欲しかった言葉なのだから。
ああ、わたし、結局信用されていないんだな。
その改めての自覚で、けっこう大きな穴が開いたままなんだとわかる。
なんかわからないけど、ある種の「過去」を思い出すだけで胸がうずく。
何かと何かが、意味もなく接続され、捏造をくり返してできた、タイトル「ダメな自分」という記憶。
娘の不登校は、何も問題じゃない。
周りの大人が、それぞれの積み上げてきた価値観を揺さぶられ、否定された気持ちになる。
だから、傷を早く治したいのだ。
私も。
どのくらい時間がかかるのだろう。
不登校?
いいんじゃない行かなくて。
それは振り切りすぎだし、
とにかく少しでも行かさないと…
それは消極的すぎるし、
私にはわからない。
先生にもわからない。
何より当の本人も、よくわからないのだ、今は。
でもこの先、娘は案外すぐに新しいOSを入手して、うまくやっていくのかもしれない。
それで果たしてよかったのだろうか、と、
大人達はとまどい続けていたいか?
もう娘にはなんの価値もない古いOSで、理解できない目の前の現実を、否定し続けていたいか?
世界の捉え方は、自分しだいですべて変わるのに。
私はまだ、苦しい。
自分の埋められなかった過去を、今もまだ古いブランケットのように握りしめている。いや、「握りしめていたい」のだ。
でも十分に握りしめたら、やがて気がつくだろうね。ブランケットはもう「今ここ」には存在しない、ということに。
ここに書こうと思ったきっかけとして、
Amazonprimeで配信された「超相対性理論」のポッドキャストに、大変勇気づけられた。ここ数年すっかり忘れていた物事の捉え方を、人間の素晴らしさを、思い出させてくれた。感謝します。
さて、新しい世界にアップデートしに行こうかね。ぼちぼちと。
大丈夫、きみなら。
ああ、めちゃくちゃ愚痴っぽくなった。
こんな記事だけど、最後まで読んでくれて、ありがとう。