し過ぎない世界


し過ぎない。



これからの生き方に求められる姿勢なのではと思います。


働く。

買う。

教育する。

食べる。

駆除する。

作る。

サービスする。

いろいろあると思う。




世の中は、自分が思っているほどシンプルではなく、自分が思っているほど善意があるわけでもなかった、と最近ようやく知った。



みなそれぞれ、自分の感覚のなかで、自分の都合に合わせて、自分がよかれと思うものを選択する。

そこにはほとんど悪意はない。

価値観が違うということなのだ。



しかし、し過ぎるという行為をした場合、それは自分の価値観の押しつけだったり、価値観の範囲を誤って相手に伝えることになる。

押しつけられると不快だし、価値観の重なりが多いと思っていたのが違うとわかると、傷つけられたと怒りがわいてくるだろう。


相手が自分を知るための境界線は、とても大切だと思う。

日本人はいい意味で、そういった境界線が少なく、すべてがつながった「和」の価値観で生きてきたのだと思う。

でもおそらく、歴史的には「し過ぎ」てはこなかったのではないだろうか。


いつから過剰に、過大に、し過ぎることがいいこと、という価値観が浸透したのだろう。



かくいう自分も、どちらかというと「し過ぎる」ほうで、その行為の反応によって自分の存在価値を確かめてきたような部分が多いにあった。だから生まれてからすでに社会にそんな支流があったのだと思う。



「失われた~」というフレーズはよく使われる。

しかし、失う期間があまりにも長いと、取り戻すことも思い出すことも難しくなる。

結局は「新しい~」という形になるのだろうけれど、

先人が気づき伝え続けてきた「人間としての成熟」に自分は重なるところがあるかを省みながら、いい大人になっていきたいと思う。



ちなみに価値観が合うということ、つまり「ある人とある感覚が重なっている」ということは、「その人すべてを肯定する」ということではない。

ということも最近気がついた笑。

これは逆にいえば、ほとんどの感覚が合わない人も、ほんの一部でも重なる部分があるのなら、その人を排除しようとしてはならないという事だ。

その人が見ている「自分と同じ価値観」のすそ野に、まったく異なった風景があるということを知ることは、結果として自分の世界を広げることにもなる。



もちろん重なる部分が多い人達ばかりに囲まれているほうが、幸せを感じる人生にはなるだろう。

でも有事が起こったことでわかったのは、そんな世界は案外つまらない、ということだった。