笑って 問うて 戦う

この社会の中にたくさんある呪い。
こうするべき。ああするべき。こうした方がいい。ああした方がいい。

でも、それって本当に正しいのだろうか。
正しさの押し付けが呪いになって、誰かを傷つけていやしないだろうか。


小さな言葉一つにも呪いは存在する。
私は、できるだけこの呪い一つ一つに敏感でありたいと思っている。
呪いに苦しむことがないようにと願うけれど、かなしいかな、人が社会化されていく過程において、呪いは大いに役に立つ。

学校による社会化も、会社による社会化も、その事自体が悪いわけではない。でも、そこに一定の呪いが含まれているということは忘れてはいけない。
その呪いは、時に人を苦しめ、時に人の命を奪い得る。


私の世代は、これまでずっと呪いをかけられ続けてきたような気がする。
キレる17歳に始まり、フリーター、ニート、ひきこもり。
そんな、いわゆる社会問題を指す言葉一つ一つが、こちらに呪いをかけてくる。
「お前らの中にそんなやつがいるぞ。だから、そんなやつになってくれるなよ」と。
その一人一人が必死に生きているということを、そこにあるたくさんの痛みや苦しみを、ないことにして、言葉の呪いでこちらを苦しめてくる。

わかりやすく社会問題を表している言葉の方がまだ親切かもしれない。
本当に厄介な呪いは、そんな難しい顔をしていない。優しい顔をして、人を受け入れるような顔をして、真綿で首を絞めるように呪いをかけてくる。
その代表的な言葉として、社会人とか大人とか自立という言葉がある。


その全てに対して私はNOを突きつけたい。

これらの言葉で、傷ついている人がいるということに気が付かないといけないのは、その社会問題においてマジョリティである側の人たちだ。

誰だって、マイノリティの部分もあれば、マジョリティの部分もある。
今こうやって言葉を紡ぐ中にも、私自身が気付かずに呪いにかかっていて、その呪いをまわりに広めてしまって誰かを苦しめてしまっていることも、絶対に含まれている。

だからこそ、自分の中のマイノリティの部分に目を向け続けることで、自分の中にあるマジョリティをたしなめるしかない。
学んで、想像力をはたらかせて、学んで。

それでしか、社会は変えられない。


社会が呪いだらけに見える私には、叫びたいことがたくさんあって、怒り散らしたいことがいっぱいあって、そうやって呪いをかけてくるたくさんの人たちを、自分を、刺して回りたくなったりもする。
正論で。一思いに。ブスッと。

でも、それはハッピーを生まないことがわかってきたから、笑って周りに問い続けることにした。
「私気になっちゃうなぁー。それ本当かなぁ?呪いにかかっちゃってるかもよーー?」と。

問い続けることは、学びを生む。
そして、学びが想像力を育む。


呪いは、その呪いの正体を言葉にして唱えると消えたりする。
意外とあっさりとそんなものだったりもする。

だから。
呪いの正体は何か。
それを暴いて、日々言葉にして、問い続けていくことで、私は社会の中にある呪いを、少しずつでも解いていきたいと思っている。


それが、私なりの、
この腹立たしい社会との戦い方だ。


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