自分の中の「なぜ?」と徹底的に向き合う時間
今日は長男を誘って、シェアランで主催している子ども哲学大人哲学に参加しました。子どもは子どもだけで、大人は大人だけで哲学対話をみっちり堪能。
私は私で、本当にいろいろと揺さぶられる豊かな時間を過ごしたのだけど、長男にも感じたことをいろいろと聞いてみたら、それがまたおもしろかったので、ちょっと共有。
長男曰く。
哲学対話と学校の話し合いは大きく違う。
学校の話し合いは、「みんなが気持ちよく過ごせるように」という目標があって、そこに向かって話す感じ。
哲学対話は、自分の中にある「なぜ?」を出して話し合う。だから全然違う。
探求学習は、どちらかというと哲学対話に近い。それは自分の中にある「なぜ?」から始まるから。
でも、哲学対話と探求学習もちょっと違くて、哲学対話はいろんな意見を出すことが大切。探求学習は、「なぜ?」を使って調べたり作ったりするもの。だからちょっと違う。
学校では、自分の「なぜ?」を話す時間はないの?と聞いてみたら、「それはない」と。「なんでないんだろうねー?」と二人の問いが生まれたところで、我が家の対話もいったん終了。
あぁ、今の学校に足りないと私が感じているのは、自分の「なぜ?」を話せる時間なんだなぁと、改めて気づかされました。
私は、これまでずっとなぜなにちゃんで生きてきて、場の進行も空気も関係なく、突然「なぜ?」を問い出してしまいます。
高校の頃も、物理のある法則を習っている時に、「なんでその法則がこの地球にあるのか?」ということを問いはじめ、「それは神様が決めたからです」と物理の先生から哲学的な答えが返ってきて、「あぁ!だからこうやって解析した人がいて、それが法則になっていて、それを覚えないといけないのか!」と理解する、みたいな面倒なことをいろんな授業で展開していました。
今思うと、相当面倒な生徒だっただろうけど、だから私にとって授業は、基本的に面白い時間でした。
そういった楽しい学びを、もっと多くの人にもしてほしい。それが私の根幹にあるのかもしれません。
ちなみに、長男は最初みたいな分析はわりと上手なんだけど、自分の中の「なぜ?」は、あまりすんなりとは出てこないタイプなので(なので、出てくるとすぐに私が大げさに拾ってしまう💦)、哲学対話自体は楽しめるんだろうか?と少し心配していたのだけど、どうやらこの「なぜ?」を扱うということ自体は楽しいと感じているようです。
そんな、子どもも大人も自分の中の「なぜ?」と徹底的に向き合う時間が、地域の中にあるという贅沢をかみしめつつ、こういった場が普通に存在する社会であれば、もっとみんな楽しく学んでいくことができるんじゃないかと改めて思ったりしています。
そんな地域をつくるために、一つ一つ活動を積み重ねていきたいなと、改めて思いました!