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生まれ育ったまちに錦を飾る(まちの不思議 おもしろ探究日記#26)

(本記事は雑誌『社会教育』2024年8月号に掲載された記事を転載しています)

6月9日、私の出身地である茨城県鹿嶋市の中央公民館で、『私たちのまちは私たちがつくる!~「好き」や「困った」をつなげてまちで生きる』というタイトルで講演をさせていただいた。本誌主催のJapan Social Education Award 2022のイノベーション賞受賞をきっかけに、「鹿嶋市まちづくり連絡協議会研修会」の講師としてお声がけをいただいたのである。

講演では、連載でも取り上げている私の活動を紹介しながら、日々大切にしていることを、5つのキーワードにまとめて、お伝えさせていただいた。

①「困った!」を共有する
②自分たちで決める
③「やりたい!」「好き!」
④声を届ける
⑤楽しいは伝播する

多くの人が忙しく時間も余裕もない中、まちづくりのような活動は、「好き」や「困った」と強く感じて、「やりたい」と思ったことしかできないのが現状である。そのため、自分や目の前にいる人の、困っていることは何か、好きなことは何か、まずはそこを共有することからしか始まらないのではないだろうか。

講演の中で、「最近困ったことやモヤモヤしたこと」を共有するワークや、「自分の好きなこと」と「夏祭り」を掛け合わせて新しい企画を考えるワークを挟み、目の前にあることが活動につながっていく感覚を、実際に体験してもらった。

講演の最後には、「私は、「まちづくり」のためには生きていない。自分が幸せになるために、「好き」や「困った」をつなげて、まちを生きているだけだ」と、まとめさせていただいた。
まちづくりとは、本来、そういった市民一人ひとりの生きる日々が、積み重なって行われるものなのではないだろうか。

参加者の方々からは、
「好きや困ったを、結果としてまちづくり活動につなげていることに感動した。この自然体がとっても大切で、長続きするのでは。」
「従来の地区に密着した行事運営中心のまちづくりではなく、いろいろな角度からの工夫・発想がこれからのまちづくりの方向になっていくのではないかと思った」
「忙しいからやらないのではなく、忙しいを解決するようにもっていける活動にすればいいんだと気が付いた」
「一緒にやろうといってくれる仲間がいることが大切」
「やりたいことはやっていいんだ!」
と前向きな声をたくさん寄せていただいた。

鹿嶋のまちづくりと社会教育

茨城県鹿嶋市は、広く太平洋に面したまちで、鹿島神宮・鹿島臨海工業地帯・鹿島アントラーズの大きな三つのキーワードでその歩みが表されるまちである。

古くは、常陸の国一之宮・鹿島神宮の門前町として発展してきたが、昭和30年代後半に始まった鹿島開発により、鹿島港を中心とした鹿島臨海工業地帯がつくられた。それまでの半農半漁の暮らしから、鉄鋼業を主要産業とした工業都市へと大きく変貌を遂げ、それに伴い、全国各地から新しい住民もたくさん移り住んだ。この新しい住民と、昔から住んでいる住民との間の関係構築に、公民館を中心に推進されていた社会教育が大きな役割を果たしていった。

その後、1993年に発足したJリーグに「鹿島アントラーズ」が加盟し、常勝軍団へとなる活躍を見せ、まち全体がサッカー一色に染まる盛り上がりを見せた。2002年の日韓ワールドカップの会場にもなり、スポーツを中心としたまちづくりが、精力的に進められた。
しかし、地方都市としての課題は存在し、近年は少子高齢化も進み、自治会加入率も低下し、まちづくり等に参加する現役世代も減少している。

そんな中、鹿嶋市では昨年度から「まちづくりセンター」という名称を廃止し、「公民館」に名称を統一し直したという。そこには、社会教育を中心に、市民が学び合いながらまちをつくっていくのだという強い矜持を感じられ、私は嬉しくなった。

鹿嶋の社会教育で育った私

思い返してみると、私は鹿嶋のまちで、社会教育で、育った子どもだった。

私の父は、生前、製鉄会社で働く中、「平成の大直刀」というプロジェクトに熱心に取り組んでいた。日韓ワールドカップの開催を記念し、地域の小学校の子どもたちと一緒に、海で集めた砂鉄をたたらで製鉄し、できあがった鉄塊(けら)で、鹿島神宮にある国宝・韴霊剣の復元品を作成した。父が一企業人として、一市民として、まちの歩みを全てつなげて、多くの市民の方々と一緒に作った大直刀を見た時には、言いようのない感動を覚えた。

私が人生で初めてもらった賞状は、幼稚園の頃から毎日のように遊んでいた「郷土かるた」の大会の賞状だった。
公民館の子どもまつりに出店したこともあった。同じ登校班の子たちと水あめや駄菓子のお店を開き、自分たちで商品をつくり、値段を決め、お店番をしたのもいい思い出である。

毎年開かれる住民体育祭も大好きなイベントの一つだった。その日に楽しく参加できる種目で、入賞すると景品がもらえ、また、地区を代表して出ることで、酔っ払ったおじさんたちが全力で応援してくれるのも、怖いと思いながらも嬉しかった。
中学高校時代は、部活で地域の高齢者施設や幼稚園に慰問演奏に行かせてもらった。小さな子たちや高齢の方々が、私たちの演奏でとても喜んでくれるのが嬉しかった。

そういった中で、私はずっと「まちにはいろんな大人がいる」。そして、「いろんな活躍な機会がある」。そして、「学校以外の活動も楽しい」ということを感じていた。
この思いから、「まちの中で人が育っていく」という事を専門に学びたいと思い、大学時代は、学生と地域の市民団体やNPOをつなげていく活動に没頭し、そこから地域活動支援の仕事に就き、今は市民として、社会教育士として、まちの中で様々な活動をしている。

そんな私の活動を紹介することが、まちの学びになるということで、生まれ育ったまちに錦を飾ることができたような、そんな思いで胸がいっぱいになる機会であった。



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