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■あのアラートに、慣れたくはない

JRの駅の改札を出ると突然、区の公共放送が始まった。
「・・・ミサイルが発射されました。コンクリートなど頑丈な建物の中に避難してください」

そんなこと、言われても。
午前7時半過ぎ、私は8時開始の打ち合わせのために勤務先へ急いでいた。
勤務先のオフィスが入っているビルは、おそらく鉄筋コンクリートでできていて頑丈だろう。しかし、駅から徒歩で10分ほど掛かる。「避難してください」というのは、「今、すぐに」という意味だろう。急に言われても、正直、困る。

交差点で信号待ちをしながら、周囲を見渡した。
スーツ姿の中高年男性は私と同様に出勤途中にちがいない。リュックサックを背負っている男性は大学生か予備校生だろう。白髪の男性の隣には、杖を手にした白髪の女性がいる。駅の近くにある大学の附属病院のほうへ向かうようだ。

大音量で流れる公共放送が聞こえていないはずはないが、皆、何事もないように信号が変わるのを待っている。歩行者の信号が青になり、それぞれが目的の方向へ一斉に動き出した。

防災訓練だったのだろうか?。
自分だけが知らない情報がある気がして、スマホを取り出しニュースを検索した。
トップニュースが速報になっており、北朝鮮から弾道ミサイルが発射され、政府が全国瞬時警報システム「Jアラート」を発令したことが分かった。公共放送は訓練や試験的なものではない。「有事」を知らせるために放送されたのだ。

青信号が点滅しはじめた。私はスマホをポケットに入れ、走り出した。
向かい側の歩道はゆるやかな坂道になっている。速くなった鼓動を落ち着かせるように、胸の奥深くまで息を吸い込んだ。一歩一歩の歩みを意識し、ゆっくりと歩き出す。
朝の日差しが、街路樹の陰をつくっている。アスファルトに光と影が揺れているのが見えた。

「避難」という言葉に反応して、慌てたり、逃げ惑う人はいなかった。
私の前を歩いている人々の背中は、日常の中を進んでいる。仕事、学校の授業、通院や買い物、それぞれが今日の予定に向かっているようだ。

これで、いいのだろうか。
有事を知らせるアラートに反応しなくて、いいのか。
そんなことを考える。
自分は、どうしたらよいのか分からない。予定通りに、今日の一日を始めている。
信号待ちしていた人々も、前を歩いている人々も、何事もないかのような雰囲気だが、私と似たようなものかもしれない。

ふと、今、自分が置かれている状況が、記憶の中にある気がした。
ずいぶん前に聞いた、ラジオ番組の話だ。
太平洋戦争勃発について、作家か評論家が語っていた。
その人は、「戦争は、いつのまにか、気がついたら始まっていた」と言っていた。

あのアラートに、慣れないままでいたい。あのアラートが発令されても、まるで何事もないかのように、それぞれが、それぞれの予定に向かっていける毎日が続いてほしい。
そんなふうに願うのは、リスクから目を逸らし、危険を回避する思考を停止することになるのだろうか。

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