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『ヴィルヘルム・ハマスホイ 沈黙の絵画』を読みました / 作品を比較するということについて

ここにアップロードした記事は、私の個人ブログからの転載になります。尚、今後修正等が発生した場合、noteの方は反映いたしませんのでご了承ください。




箱根のポーラ美術館に行ってきました。目的は、ヴィルヘルム・ハマスホイの作品を観ることです。

ハマスホイのことは、国立西洋美術館の売店で偶然見つけたポストカードで知ったのですが、以来、彼の作品の「静寂なる世界」に心惹かれていました。

彼の作品は、国内では国立西洋美術館に『ピアノを弾く妻イーダのいる室内』が収蔵されているのですが、残念なことに常設展示ではないため、興味を持ったタイミングで直ちにハマスホイの作品を直に鑑賞することはできず、鑑賞の機会をこれまで首を長くして待っていました。

ポーラ美術館にはハマスホイの『陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ 30 番地』が元々収蔵されており、開催していた展覧会『部屋のみる夢 ― ボナールからティルマンス、現代の作家まで』では更にもう 1 点、国立西洋美術館に収蔵されている『ピアノを弾く妻イーダのいる室内』が展示されていました(!)。ようやくハマスホイの、しかも最初に興味を持った『ピアノを弾く妻イーダのいる室内』も観られるということで嬉々として行ってきました。

この展覧会には大いに満足し、お土産には複製画と、今回紹介するハマスホイの作品集を購入しました。


さて、今回は出先で購入したハマスホイの作品集を読んで思ったことをつらつらと書いてみます。

ヴィルヘルム・ハマスホイ 沈黙の絵画 - 平凡社

おそらく入門書と思われる本書ですが、私が美術全般について明るくないということもあり読んでいてとても知的刺激を受けました。

本書では、ハマスホイの作品の他、彼が影響を受けた画家のことについて図版付きで解説されています。つまり、ハマスホイの作品だけを見るのではなく、そのルーツとなる作品と比較することを促しています。

具体例をひとつ挙げると、『陽光の中で読書する女性、ストランゲーゼ 30 番地』の頁には、隣にピーテル・ヤンセンス・エリンガの『読書する女性』が紹介されています。そして、2つの作品のモチーフや構図が瓜二つであること、ハマスホイがこの作品の複製写真を所有していたことが指摘されています。加えて、ハマスホイがエリンガの作品を手本にして本作を制作していただろうということも本書では書いています。

過去の作品をモチーフや構図の手本にする、ということは当然行われることだと思いますが、「習作」といった題もついていない作品でここまでモチーフと構図を酷似させた作品を発表していることに、はじめ私は驚きました。

しかし思い返してみると、異なるジャンルになりますが音楽なら私もこれに類似した例を挙げることができるのでした。例えば、ストラヴィンスキーの『結婚』がその旋律や歌詞についてロシアの民謡・婚礼歌に近しい作品が複数存在することが指摘されていることや*1、同じくストラヴィンスキーの『プルチネルラ』がペルゴレージをはじめとした 18 世紀イタリア音楽の諸作を編曲して作られていることは以前から知っていました。そして、『結婚』や『プルチネルラ』とその元となった作品を聴き比べ、これらの作品が単なる編曲などではなく、ストラヴィンスキーの創造性が遺憾無く発揮された作品であることを確認したこともありました。


参考: ストラヴィンスキー『プルチネルラ』第1曲とガロ『12のトリオ・ソナタ 第1番』第1楽章


更に話を脱線させていきます。

アニメ・漫画などのポップカルチャーのファンと関わったり彼らの投稿を眺めていると、作品同士を比較することを忌避する人を度々見かけます(「自分が楽しんでるならそれでいーじゃん!」「それぞれの好みを尊重しようよ」といったような主張をする人のことです)。複数の作品を比較して話すと、どうしても一方の作品を貶すことになりがちで(私は必ずしもこれを否定しませんが)、自身の好きな作品が否定的に扱われることが耐えられないといったことなのでしょうか。あるいはそのような話題を受け入れるとコミュニティがエリート主義的で排他的になることがあり得るため、コミュニティの存続あるいは拡大のためにそれを避けたい気持ちでこのような主張をするのかもしれません。とはいえ、自分が好きな作品のことを享楽的なものとして扱うような表現はしないほうが良いのでは、と思います。......

アニメ・漫画といったポップカルチャーにしろ音楽・美術といったハイカルチャーにしろ、私は単独の作品だけで十分な鑑賞体験を得ることはできないと考えています。それは、影響を受けた与えたといった縦のつながりや、同時代の作品同士といった横のつながりを知り、作品の相対的な立ち位置を知ることがその作品を深く知る鍵になると信じているからです。私がよく楽しんでいるストラヴィンスキーの音楽も、私がペルゴレージやバッハやワーグナーやドビュッシーを多少なりとも知っているからこそ彼の独自性を具に感じ取り(?)、彼の音楽を存分に楽しむことができるわけです。

評論家の吉田秀和は、ワーグナー以後の音楽を聴くにあたってはワーグナーを体験してひとつの基準とするべきと主張しています。作品同士を比較してワーグナー以後の作曲家にワーグナーが与えた影響を知ることが彼らの作品を深く理解する助けになるとするこのスタンスに(勿論ワーグナーに限らず他の影響力の強い作曲家や作品についても同様に)、私は全面的に賛同します。

しかし、ヴァーグナーは、絶対に、きかなければならない。それでなければ、ブルックナー、マーラー、R・シュトラウスはいうまでもなく、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』も、シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』ほかの諸作も、ベルクの『ヴォツェック』や『ルル』も、ヴェーベルンはもちろん、さらには、サティの『ソクラテス』も、ピエール・ブーレーズの『主なき槌』も、逆な現われ方としてのストラヴィンスキーの『春の祭典』も、みんな、ある大切な体験を素通りしたうえの新音楽になってしまう。

吉田秀和. 名曲三〇〇選 吉田秀和コレクション (Japanese Edition) (p.190). Kindle 版.


閑話休題、本書を読む前もハマスホイの作品は漠然と好きでいくら眺めても飽きないものでしたが、本書でハマスホイの作品と元となった作品を比較することで、彼の独自のモノクロームな配色や極度に生活感を排除した室内画の静謐さをより鮮明に意識できるようになり、絵画を楽しむ視点が広がったと感じています。また、ハマスホイが影響を受けたとされるベルギー象徴画やオランダの風俗画についても早晩調べてみようかなと思います。

今まで触れたことのない分野について勉強してみると、新しい知識を得られるばかりでなく、既知の事柄についても普遍化、抽象化する機会になる、今回の場合では作品を比較することの重要性を改めて言語化する機会になりました。

これからも日々知識を積み上げ、比較し言語化していくことで作品の価値を発見する営みを大事にしていきたいものです。


*1: Dmitri Pokrovsky, Pokrovksy Ensemble のアルバム"Stravinksy: Les Noces ("The Wedding") and Russian Village Wedding Songs"のライナーノーツ参照

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