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「性体験」の男女差について #駄論

「性」の話をしてみようと思う。

つい先日、付き合ってもらっている相手と、一晩中かけてLINE通話にしゃれこんでしまった。
久しぶりに白熱したということもあるが、話し込んでしまった。
いろいろな話題をこねくり回した、その中で一つ、印象的に議論したのが、
「童貞」と「処女」の価値
についてだった。

これに関して、
「童貞=一度も城を攻め落としていない兵士」
「処女=一度も攻め落とされていない城」
という、孔子の比喩はあまりに陳腐なので無視しましょう。

童貞と処女という二つの語句は、男性でも女性でも変わらず、「性的体験(性体験)」が一度もない、という状態を指す。
当然のことだが、状態としては両者とも同様で、名称だけが男女で違う。

ただ、実際の体験者としての話は簡単にいかない。
生きていく課程で、歳をとっていくにつれ、「性」に関する接点をそれぞれのタイミングで体験する。下ネタレベルでも構わないが、自分の興味・関心には関係なく、世の中には「性」が確かに存在し、みんなそのことを少なからず知っていることを実感していく。

そうすると、「性」を体験したことがあるかどうか?
という話題は、個人の体験の範囲から、いままでの社会集団との間に発生した問題だと考えたほうがいいだろう。
特に男性は、思春期と呼ばれるチェリーの時期から、こと同年代の奴らへと、この関心を向け始める。そして、クラスの女子からは無関心の沈黙をおまけに経験する。

いわば第二次性徴の課題だと、わたしは捉えている。
「性」という話題を基準にし、自分と他人の差異を自覚し、自己を形成する。この流れが思春期には、乗り越えるべき壁として現れてくる。そのことで、悩んだり困惑したり、苦しみを伴うことがあるのは、この体験がそれまでの課題とくらべてダイナミックに自分へ影響するからだ。

そのことで、男女差に注目してみよう。
簡単に言えば「童貞であること」と「処女であること」。
もしくは「童貞を捨てること」と「処女を捨てること」は、図らずも同じ体験を本人に与える訳では無いと考える。
その体験を「第二次性徴の課題」として捉えてみて、そこに確かな男女の差があることを示してみよう。


①童貞であるということ

まず男性側にとっての、性の未体験状態=童貞であることが、思春期にどんな意味を持つのか考えてみる。

第二次性徴期において、男女に関わらず生じる共通のものとして、「肉体の変化」がある。
男の子の場合では、以下のことが起こる。

  • 髭や体毛が濃くなる

  • 体つきがガッシリする

  • 声変わり

  • 性器の変化(勃起や精通)

これらの変化というのは、本人に「(いままでと違う)大人の状態への移行」を実感させ、またそのことを自覚して受け止めることによって、思春期の自立へと結びつく。
ただ、自立という精神的な成長は本人の中だけで完成しない。「他者との差異」によって自分を省みる過程が必須だ。
この 「他者との差異」はとても重要で、第二次性徴期の課題を与えると同時に、それをまた乗り越える役割も兼ねている。

変化を伴った肉体は、今までの自分と、これからの自分の間にある差異を突きつけてくる。これは本人の中にある記憶と現在を省みることで課題は乗り越えられる。

ただ、周囲の友人・知人たち(もしくは赤の他人でも生じる)も同様の変化をしているとすれば、かつての友人たちと現在の友人の差異を受け入れる必要がある。またそれは同時に、今の友人がかつてのものでは無いことを受け入れることでもある。

こうした、かつての友人・知人との差異によって生じた混乱シーズンを、男の子たちはある共通の観念によって、「みんな同じ風に思ってるんだ」と解釈する。
それは競争心というストレスである。

男子にとって第二次性徴期の1番の悩みは何かと言えば、「自分は周りと比べて、大人になっているのか 」「自分の成長段階は、周りと同等であるのか(もしくは進んでいるのか)」など、あたかも肉体と精神の完成を、早いもの勝負のように競い合う心持ちが生じることである。

簡単に言えば、周囲と見比べた自分が、大人の状態に到達しているか、否かが重要視される。そんな時期なのだ。

すると、「童貞であること」がどんな意味をもつのか。
性体験の有無は、体の変化と違い、他者と見比べることができない。あくまで体験なので、見るのではなく聞くことでそれを知る。
見比べることの出来ないものは、本人たちに不安を与える。「もしかしたら、周りはもう既に……」と感じさせ、さらにその秘匿される性体験を重要なもの、まだ手にしていない憧れとして根付かせるだろう。
「童貞」であることは、思春期の男の子にとっては、「恥の維持」であり、それを捨てることは「憧れた大人状態への完全移行」を実感させるものとして、本人の中に思わせるのである。
※派生として、だから男の子は下ネタに過剰反応するようになる。
「性」の習得は大人としての必要課題に捉えられ、そのことに詳知していることが、その代替になり得るからだ。自信にコンプレックス(葛藤)を抱えている人ほど、顕著に思える。

②処女であること

対して女性において、性の未体験状態=処女であることはどういう意味があるのか考えてみる。

一言でいえば、それは「困難の未到達」である。
男性が性体験を一種の成長過程、儀礼的な優越を伴うのに対して、女性のそれは苦痛を伴い、またその先にある“母(母親)”への変化を強要される、重複した困難を会得する体験であると考えられる。

たとえば、女子の第二次性徴期におこる変化としては、体毛や体つきの変化などの男女共通のもの以外として、「初潮および月経」が挙げられるだろう。
これは性器の変化というだけではなく、実に内的な変化を伴う。今まで自分の体にはなかった、いや存在はしていたが発揮されていなかった部分が、突然に動き出し、それからほぼずっと体に付きまとってくる。変化や成長と言うより、変容といってもいいかもしれない。
これに、心理的な反応も重なる。体の内におきた変化に、驚きや困惑が伴い、また自身が変容していくことへの葛藤、恐怖、不安なども見られるだろう。もちろん前向きに捉えられる視点もあるだろうが、少なくともこれが、その後の人生にかけて劇的な変化であることは否めない。

周囲の目はどうだろうか。
第二次性徴を迎えることは、女子にとって、とても大きな意味で「女性に成る」ことだ。体つきの変化、こと乳房や丸みを帯び始める体は、一人の女性としての像が、自分の意思と関係なく重なってくる。単に、少女で無くなることではない。
先にも触れた“母”の像が、自分の上に重なってくることは、同時に性体験の存在をチラつかせる。性的な意味ではなく、ひとつの過程として、自身に待っていることとして、予見される事実をいったんは受け入れなければならない。その例となるのは、主に自身の母である(もしくは身近な女性)。「自分も将来、こうなるんだ」と、未来予想図が本人の意思と無関係に示されている中で、女子は大人へと変容していく。

そうなると、性体験は女子にとってどんな課題であるかがみえてくる。将来的に自分へと降りかかる“母”へとなること、またその状態になることが許される=少女ではなくなる意、そして今までになかったこれら困難とも言える事態が当たり前の変化として突きつけられること、こうしたことを受け入れる側面があるのだと思える。

大袈裟な言い回しになってしまったが、ここに男女差があること。つまり、男子にとっての成長は、女子にとっては変容である。この違いが、かなり重要なことであるといいたい。

世の中にはびこる「性」の存在は、不変であると同時に秘匿される、じつに特殊な二面性をもつ共通概念の一つである。それは社会的な概念だ。
現在は、ジェンダーの問題や、男女差の視点を伴う発言に注目が向けられているが、そもそもの「性」の自覚の出発点として、未体験から実体験への移行=第二次性徴に基づいたこの試論を、そうした態度への先立つ考えとして、個人的に書き残しておく。

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