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ものはあるだけで狂っていく【『きみよわすれないで』篠原一】

私は、強いものが、好きです。
この趣向はありとあらゆる方面に当て嵌まり、小説に関しても例外ではありません。作品名を挙げるなら、前回、前々回と二記事にわたって紹介した『亡国のイージス』のような――登場人物が過剰に熱くて、躍動感に溢れていて、読後も前向きになれるようなものを、私は積極的に取り込んで動力にしたいタイプの人間なのです。

でも、だからと言って弱いものが嫌いかと問われるそんなことはありません。むしろ、時と場合によっては強いもの以上に”そちら”に惹かれてしまう自分がいます。
否定したくてもできない、不穏な感性。それは昏い悦びを求めて今日も蠢き続けています。
心の端っこで、でも確実に根を伸ばしている。
弱いもの。脆いもの。儚いもの。
そして狂っているもの。
そういうものたちを苗床にして。


『きみよわすれないで』篠原一

篠原一の『きみよわすれないで』は、盲目のピアノ調律師である”おじさん”と、そんな彼の存在に惹かれる”あたし”の物語。
作品の世界観を端的に示したキャッチコピーがありますので、まずはそれをご紹介しますね。

私は私を殺すために生まれてきた。ふたりだけの世界が端から崩れていく。

たったの二文。にもかかわらず、崩壊の足音が明瞭に耳に届くような気がするのは私だけでしょうか?
この作品の中に、いわゆる強いものは存在しません。
触れたところから全てが壊れてしまいそうな危うさが支配する世界は、死の予感に満ちるばかり。
象徴的なのが、盲目のピアノ調律師である”おじさん”です。

主人公の”あたし”が”おじさん”とはじめて出会ったのは十四歳の春でした。”あたし”の姉が、自宅のピアノの調律を彼に依頼したのです。

そのとき、そのひとは二十四だった。(P.12より)

ここで唐突な質問ですが、二十四歳の成人男性は”おじさん”でしょうか?

立場や年齢によって様々な意見があるかとは思いますが、少なくとも私が二十四歳だった当時は自分を「おばさん」の枠にはカテゴライズしていませんでしたし、中学時代に遡っても二十代半ばの男の人を指して「おじさん」呼ばわりしていた記憶はありません。

でも、十四歳の”あたし”は、二十四歳の彼を”おじさん”と呼びます。

そのひとは、おじさん、と呼ばれることを好んだ。
ほんとうは苗字で呼ぼうとして正されたのだった。どうして、と訊いても教えてくれなかった。
「いやでもいずれわかるだろうよ」
おじさんはそう言って自嘲的に笑った。
~中略~
わかったときにはもうなにもかもが遅かったのだけれど。(P.28より)

年若い彼(しかも「きれいな顔をしている」)が、自身を”おじさん”と呼ばせる理由。それはいずれどころかすぐに、読者はもちろん、”あたし”にも感受されます。”おじさん”を静かに蝕む、狂気の正体として。
でも、わかったからと言って、それが一体何になるというのでしょう?
もうすでに、なにもかもが手遅れなのに。

知っていますか?
ピアノの弦には、常に一本あたり90kg、1台で約20tもの力がかかっているそうです。自重により、あるというだけで狂ってしまう――それはピアノという楽器の宿命であると同時に、広義の意味ですべてのものに共通する真理なのかもしれません。

ものはあるだけで狂っていく――ものとはそういうものだ。(P.18より)

本文中のこの一節に触れるたび、私は無性に怖くなります。ピアノだけじゃない。”あたし”も、”おじさん”も、そして私たち読者もまた同じ十字架を背負っているのだと、思い至った心が慄然として、急速に不安になるのです。

ものがあるだけで狂うのなら、
人も、生きているというだけで狂っていく。

きっとそうなのだろう、と、簡単に頷くことは私にはできません。認めると、今自分が拠り所にしている足場が崩壊してしまいそうで、とても怖い。
でも同時に、心の片隅でむくりと頭を擡げる安堵感に素直に従いたい衝動も私にとっては輪郭を伴った願望で、それを自覚する瞬間は狂気というものと自分とが、普段想像している以上に近しいと感じます。

程度の差はあっても、人は必ず狂いゆく生き物で、私も、私の大切な人たちも、雑踏の中ですれ違う知らない誰かも、世界中の人すべてが、生きているというだけで日々狂い続けている――そんな風に考えると、なんだか肩の力が抜けて、強いものだけをがむしゃらに搔き集めている時よりも、自分に素直に、楽でいられる気がするのです。

人は、生きているというだけで狂っていく。

強いものに憧れながら、私は『きみよわすれないで』というこの脆く儚い物語と永遠に払えない深い闇を心に抱えた登場人物たちが、好きで好きで仕方ありません。
それはもう、気が狂いそうなほどに。

あなたはどうですか。
この狂気を肯定できますか。
この世界のあらゆる狂いを、天然の整音として、愛することはできますか。

※『きみよわすれないで』が大好きな私ですが、何度読み返しても本文と題名との解釈が交わらず、大混乱に陥ります。「わすれないで」という想いの主については二人ほど候補がいるのですが、どちらも「わすれないで」というよりはむしろ「わすれて」タイプだと思うんですよね…読解力のない自分が情けない…
もし本作を読んで、題名の解釈について「これ!」という答えがある方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。お待ちしています。

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