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花を摘むこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術

『歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術』(河出書房新社、T.エスペダル著、枇谷玲子訳)

 ロンドンの拙宅の周りに、見覚えのある花が咲いていた。
幼少期に住んでいたチェコの家の庭に咲いていた花だった。

 幼い頃の私は花を摘んで遊ぶような子だった。
いや、きっと今もそんな子だ。
私は野の花を摘むのが好きだ。

 野原の真ん中でしゃがみ込んで、花を摘む。
足元のとても低いところに生えているから、これを気にかける大人は誰もいない。私と同じような仲間がいないかとちらちらと辺りを見回すのだが、花のことを気にかけるものは誰もいない。そちこちで遊んでいる子どもさえ。
 本当に私だけなのだろうか。今までもそうだっただろうか。記憶の糸をたぐり寄せてみるのだが、私が野で花を摘んでいる人を見たのは、もしかすると妹だけだったのかもしれない。いつかの大親友のクリスティンカちゃんだって摘んでいなかったと思う。あんなにずっと一緒にいたのに。それとも記憶の中の妹さえ、私が誘ったから摘んだだけだったのだろうか。

 花を摘むのは一日二輪までと決めている。ポケットからノートを取り出して、まだ使っていないページを開く。水分で万年筆で書いた文字たちが滲んでしまうと困るから、ずっと先の方までページをめくる。花を逆さにして紙の上に載せると、萼(がく)と茎を抑え、そっと力を加える。それから、花びらが折れないように、やさしく丁寧にノートを閉じる。閉じてしまえばもう安心だ。私はノートをポケットにしまって、ふたたび歩き出す。

 歩きながらポケットに手を入れると、革のノートカバーの柔らかい手ざわりを感じた。私はもうこれさえあればどこまでも行ける気がした。遊牧民が財産を装飾品に換えて身につけるように、金銀の花を挟んだノートを持って歩く。ポケットに何かが入っていたら、それだけで私は自由だった。
私は結局、何もなくたってやっていけるのだ。野で花を摘んで、それで行く先で誰かに渡したいと思ったら、いつだって渡せばいいのだ。もう何も困ることなんてなかった。地から借りているだけなのだから、気が向いたら返すことだってできる。

 そういえば、私はポケットにどんぐりを入れて歩きたいと思っていた。別に貝殻でも、綺麗な石でもよかった。
でもきっと、たとえば私が何かのお礼にどんぐりを渡したところで、冗談だろうと笑われて終わりだ。受け取ってもらえたところで、その人はそれをまた別の何かと交換してくれるわけでも、森に撒いてくれるわけでもないだろう。
いつかの秋、私は野菜をもらったお礼に手紙を書いた。仕方がないから、どんぐりを翻訳した。

 まだ戦争が始まって間もない頃、あるウクライナの女性がロシア兵にこう言っていた。
「あなたたち、この種を持っていきなさい。
みんなこの種をポケットに入れていきなさい。
あなたが死んだとき、そこから向日葵が芽を出すように。
あなたたちは種を持ってここで死ぬんだから。」
私もいつか、そのために種をポケットに入れて歩く日が来るのだろうか。もしそうだとしたら、そのときは何の種を入れたら、何が芽生えたら綺麗だろうか。

 自室の机の上には本が積み上げられている。積まれた本の山の底には、ちり紙が2枚重ねて敷いてある。私は、ノートに挟んで持ち帰った花を2枚のちり紙の間に挟み込むと、また本を元通りに積み上げた。
押し花は少しずつ、どんぐりを翻訳して書いた手紙と一緒に贈る。
どんぐりが読めないひとも、不思議と花には何か意味がありそうに思ってくれる。

 昨夏、ある親友はおもむろにポケットから柿の葉を出して、私に見せてくれた。どこか私と似ている彼女なら、或いは花を摘むことがあろうか。
私は、ポケットから葉や種や貝殻が出てくるひとを好む。

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