何を贅沢な。
最近、自分の感覚が鈍っているような気がする。
感覚、というのは自分の心の哲学のようなもの。
2年前に身体を壊して食事が摂れず、働くことがままならなくなった時のこと。当時の私は『人生の休息期間』ともいえる日々を過ごしていた。
今振り返ると“暇を持て余していた”とも捉えられる期間だが、その間に私は静かに世界を見つめて。そして幾つか、あくまで私にとっての世界の本質のようなものを会得していた。例えば、
自分を大切にしてくれる人は必要以上の「お願い」をしてこない、とか。
お金を使う時は“お金が笑っているか”を考えて使うようにしようとか。
Youtubeやテレビ、購買行動は誰かの生産物を消費する行為で、それよりも私は文章や料理で何かを生産する時間の方が満足度が高いとか。
そういう私にとっての『正解』を見つけて、心に留めていた。
しかし最近はどうだろう、と振り返ったとき。なんだか、そういった哲学を見出すアンテナが、弱まってきているような気がしたのだ。(その正解はもちろん流動的なものであるが)
もちろん、今と当時では状況が違う。
当時は、働かない日(働けない日)は朝起きてから寝るまでの時間を全て自分好みに過ごしていた。働いたとしても、9:00-11:00とか、長くても14:00まで。とにかく“働くことは怖いことではない”という感覚を自分に教えてあげたかった。それゆえ、自分のために使える時間が物理的に長く、周りを敏感に感じ取る時間や自分と対話する時間を長く取れた。
対して、今は週5日間、9:00~17:00までアルバイトをしている。1日あたりの時間には上限があるため、過去よりも労働に拘束される時間が長いということは物理的に自分に使える時間は減る。
とはいえ、私は労働時間を「誰か(組織/店舗)のために消費する時間」と考える性分故に、自分のためだけに使う時間を確保しないと、気が済まない。
だから4:00に起きて、自宅を出発する8:00頃まで料理をしたり朝一番に頭が澄みきっているときに文章を描く。
けれど、どれほど自分だけの時間を確保しようとも。どれほどその時間を捻出しようにも、労働を行う体力とのバランスを考えなくてはいけない。
帰ってきて、スイッチが切れたように頭が思考停止状態になると心の哲学に巡りあえやしない。感覚が研ぎ澄まされやしない。
元より、今自分がこの道を歩んでいるのは、過去と今の自分が”そうありたい”と願っているからだということは承知だ。
けれど、少し。少し羨ましいのだ。
あの頃の、心の外と内に対する感覚が研ぎ澄まされていたときの自分が。働けないけれど、心は常に水分たっぷりに潤っていた自分が。
当時の自分は、働けない自分が。少しもお金を稼ぐことができない自分が、嫌で嫌で仕方なかった。誰かの力にすがろうとする自分が。スイッチが切れたように床に横たわって1日過ごしてしまう自分が。
嫌だった。
それでも、世界と自分を感じ取るアンテナは凄く敏感で。いくらでもnoteで、日記で。文章として描いて表現したいことだらけだった。アナログにほぼ毎日したためている日記の過去のページには『noteで描きたいタイトル』のメモがそこら中に殴り書きしてある。
それを、未来の私が「羨ましい」だなんて言ってしまったら過去の私は怒るだろうか?「私より働けているくせに」とかなんとか言われてしまうだろうか。
「何を贅沢な」と言われてしまいそうだ。
そんな過去を羨む私だが、時が流れて未来のどこかの私が今の私を見たら、やはり同様に今の私を「羨ましい」と思ってしまうのだろう。
それは1人身で羨ましい、なのか。休みがあって羨ましい、なのか。どの水準での羨ましいなのかはわからないけどきっと、確実に。
未来の私が手にしている例えば、パートナーや子供とか。休みがないほど仕事が貰えることとか。
現在の私にはない“贅沢さ”を、未来の私は持ち合わせているのかもしれないのに。
要は、過去の芝生はいつだって青いのだ。いつだって、青くていつだって羨ましいのだ。でも、だからこそ、今目の前の自分に集中したいものだ。
「何を贅沢な」と未来の私が言っているぞ、と時々思って。
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