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拝啓:“優秀”になりたかった私へ。

■前置き

“黒歴史”とも、”思い出したくない過去”とも少し違う。”今の自分と少し違う自分”っていたりしませんか?

というか、私にはいます。

2年前の自分が“それ”です。大学3年生だった私。とある企業でインターンをしていた当時の私。“がむしゃら”とか、“朝から晩まで”とか“とにかく”とか。そんな前置きが似合う人間でした。そして、自分の周囲にいる“すごい”と自分も世間も認めている方々から高い評価を受ける自分。その状態を“自分が優秀”だからと自分を肯定する、自分を快感へといざなう材料にする。世間からの高い評価、世間の“すごい”にしがみつくことが揺るぎない自己肯定だった私。

“優秀”になりたくて、なりたくて。
なりたくて、なりたくて仕方なかった私。

今の私と初めてお会いする方が、もしあの頃の私を見ることが出来れば、少し驚くように思います。なんたって、話し方も超論理的(無駄に背理法とか使ってた)で、のんびりとしている今の話し方とは程遠いのですから。

もがいてしがみついて、結局身体を壊してしまった後、私は当時の自分をなるべく自分と切り離して。同じ人間ではない、と思い込むようにしていました。あれは私じゃない。あの時は違う人だったんだ、と。

“頑張っちゃっていた”とか”少し羨ましいくらいの熱量だけど、もうあの熱量にはなれない”と人間Aと人間Bとして分離することで今の自分の心を保ちたかったのだと思います。

だけど。最近、ライターとして執筆をする中で自分の仕事の進め方、テーマを心に問いかける時。ふと、あのインターン時代の経験が凄く役立っていることに気づきました。正確には、気づいてはいたけれど、ようやく認めた、が正しい表現かと。

この文章を執筆するにあたっての目的は何?今この章でこの例を出す目的は?そこにファクトはある?心に毎回のように問いかけて仕事をする自分を見て、あの時の自分の延長にもしっかりと今の私がいると知りました。

切り取り線はあっても、無理に切り取らなくてもいい。勿論、切り取る時があってもいい。世間的に優秀な“誰か”でなくても、“自分になる”過程でも当時の自分のやり方は真似てもいい。過去の自分をようやく肯定し、今もあの時も自分。そう思えるようになってきたこの段階で執筆してみようと思っていた文章です。

■“優秀”になりたかった私

2年前、大学3年生だった私は当時“取り組んでいた”就活の結果に心から納得できずにいました。悶々とこの先どうしようか、と考えていた頃にお誘いを受けとある企業にてインターンをすることとなりました。

当時、経営者の方やビジネスに目がなかった私。世間的に評価を受けている方々に名もなき自分が『お近づきになって』仕事を出来る環境。そして彼らに仲間に入れてもらえることが快感でした。そして、仲間に入れてもらえるだけでなく、自分に意思決定の権利がある事も私を快感たらしめました。

始業時間から就業時間、どのタイミングで何をするのかも完全に自由な環境(確か6:00に出社、21:00頃退社していました)そして、何より根拠があれば。目的に対して、その達成に向けた事実データがあればインターン生だろうと任せてもらえる。その環境が当初の自分にとってはすごく心地いいものでした。企画を打って、事実データを集める。企画が承認を受けて、企画の決定権を自分が握る。『躍進』『裁量』とそれに伴う『期待』『高評価』の数々。私の思う“優秀”はそれを獲得し、そこに浸ることでした。

そんな中、私の直属の上長にあたる方が私についてのnoteを書いてくださいました。

書いていただいた時、私本当に嬉しくて嬉しくて。(今でも嬉しいけれど、最近まで怖くて読めませんでした笑)しかし同時にそれは見えない怖さにもつながりました。

“期待を裏切ったらどうしよう”
“失敗したらどうしよう”

すごく怖かった。とてつもなく怖かったです。自分が、そして世間が“優秀”としている方々の中にいる自分。その中で決定権を持って仕事を任せてもらえている自分。

“そうでなくなる”自分が生み出されてしまうことが怖くて仕方なくて、当時の私はプレッシャーに押しつぶされて。そして実際につぶれました。
(これは誰が悪い、悪くないという話ではないです。あくまで当時の自分が、当時の働き方に合っていなかった、それだけです)

だけれど、最近久しぶりに描いてくださった記事を見つけて懐かしく読み返していました。紹介してくださった私の中にある3つの力。やり抜く力、行動力、改善力。

あの頃は、と切り離していた自分が持っていた力。ですが、ようやくインターン時代の自分を肯定できるようになってきた中でよくよく今の自分を見てみると。どの力も、今の自分に形を変えて存在している。そう思えました。

■“自分”になる過程の今、私が持つ3つの力

■3つの力⑴ やり抜く力

インターン当時は毎日、日経新聞の夕刊をくり抜いて要約をしていました。恐らく実家の引き出しには10冊近く新聞ノートがあるんじゃないのかな。よく続けたと思います。

だけど、あの時の私にとって新聞を切り抜いて発信することは途中から義務化されて自分を少し苦しめる行為になってしまっていたようにも思います。気になる記事がなくても、“発信しなきゃ”と誰かに言われたわけでもない圧を感じていたように思います。続ける=美徳でしたから。

今も、noteやInstagramを定期的に更新しているけれど更新しない日もあります。けれど、その行為が”好き”なので気づけばほぼ毎日更新してしまっている。そんな感じです。

やり抜く=何が何でも毎日続ける、ではなくて。やり抜く=好きだと思えること、続けられそうなことを細く長く続ける。そう思えるようになりました。そして、SNSの発信に限らず、おむすびの出店、記事の執筆を細く長く楽しむ。この力は現在でも間違いなくあります。

■3つの力⑵ 行動力

活躍している経営者の方や、執行役員の方に会いに行く。あの威力というか、かっ飛び力というか。今思い出しても確かに凄まじい行動力でした(笑)

ただ、行動力があったというよりも。『優秀』『有名』『凄い』人と接点を持てている私ってすごくない?そうアピールするための行動力だったように思います。縋りつくための行動力、という言い方が合っているかもしれません。

ただ、身体を壊している時に凄く世の中を俯瞰的に見ていた時に考えました。

吉田沙保里が優勝して、一番嬉しいのは誰だ?
サッカー日本代表が優勝して、一番嬉しいのは誰だ?

答えは“当の本人”でした。
”吉田沙保里と同じクラスだったんだ”と話す人でも、”日本勝った!”と試合を見ていう人でもない。

自分が目指す自分に、自分がなることが。そのための手段として行動力がある事が、最高だと。目的としてあった行動力が、今では自分をパワフルにしてくれる1つの手段として息づいてくれています。

そうでなければ、野菜が好きだからと山形に1ヵ月住み込むことも、北海道に3週間住み込むことも。福島の味噌工房に鈍行でいくこともないでしょうから。

■3つの力⑶ 改善力

酷評を受けてから4日で300データを集めてプレゼンをした。あれは、悔しくて仕方なくてこんにゃろ精神で気づけばそうなっていたという…。懐かしいです。しかし、当時の私を突き動かしていたのは『悔しさ』でした。

『悔しいから』
『認めて欲しいから』

その感情が自分を突き動かす力は時に更なる半端ない力をだけど、マイナスの感情というか。負の感情の力には少し限界がある事も同時に実感しました。

『楽しい』
『なんかよく分からないけど、夢中で続けたい』

そんなプラスの感情で動けることに少なくとも私は改善力を使おうと思うようになりました。マルシェに会いにきてくれた精米店の大将に、お米の炊き方を指摘されたとき。たしかにこんにゃろと思いつつ、だけど自分のおむすびが大好きだから塩加減や水の量。あれやこれやと調整しました。

うん、改善力はきっと今も私を時にアップデートしてくれます、

■最後に

久しぶりに見つけた諸戸さんのnote。消してしまいたかった過去の自分を少しずつ今の自分の人生と、線で結びつけることを許せるようになってきています。あの頃も、今も、変わらず私だね、と。

よく、ご飯に連れて行ってくださった時に諸戸さんは仰いました。

『筧君はどのくらいの範囲の人に価値を広げたい?』

とにかく“すごい”経営者になりたかった私は
『日本。いや、可能な限り広い範囲です』と毎回のように答えていました。

だけど、色々踏まえて。色んな自分を見て知って体験した今、同じ問いを受けたら

『目の前の方、1人でも価値を届けたいです』ときっと答えます。お金をかけて私のおむすびを召し上がってくれる方、時間をかけて私の文章を読んでくださる方。別にその規模が果てしなく広くなくても。目の前の相手の喜びに繋がればいいな、そのくらいな気持ちです。

『筧君の人生のテーマは愛、だね』

2度ほど何気なく仰ったこの言葉。何気ない一言だったかもしれかいけれど、私はかなり印象深く覚えています。大事なのは価値を提供する規模の大小ではなく、筧君には目の前の相手に愛を捧げる範囲が合っていると思う。そんな意味だったと勝手に解釈して心の糧にしています。

拝啓、優秀になりたかった私へ。優秀にはなれなかった、というかならなくても。世間的にすごい”誰か”ではなくても。自分らしくいられる”自分”であれますように。

(諸戸さんっっ!お久しぶりでっす!!時々facebookで反応ありがとうございます!また良きタイミングでお会いしましょうね)

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