見出し画像

友達観

中学生

 中学生の頃、気持ち悪い人間に囲まれていた。
 同じクラスの男子は、平気で他人に変なあだ名をつけ、陰でそのあだ名を使って人をいじった。陰でいつも人をクスクス笑っていた。それを皆「面白いもの」として扱った。「コレって面白いんだ。」私は集団心理に洗脳されていた。面白いんだから良いじゃん、という悪質で倫理に欠ける男子同級生。今思えば吐き気がする。何故教師はそれを間違っていると教えてくれなかったのか、と思うが、当時の私たちは洗脳されていたのだから、何を言っても無駄だっただろう、とも思う。とにかく、いつも偉そうで人を小馬鹿にしている男子たちが違和感で、でもその違和感を見ないようにしていた。これが原因で、私が男の人を無理になった。男の人って他人を小馬鹿にする生き物だという考え方が真髄に刷り込まれてしまったのだ。中学生なんて本当に弱い生き物で、教室が全てで、1人になることは「死」をあらわしている。集団から少しでもはみ出したら終わりだと、違和感を押し殺して日々を耐え抜いていた。
 このような男子と対照的に、女子はどうであったか。女子はグループを作る習性があった。可愛くて、彼氏がいて、コミュ力があって、愛嬌があって、真面目すぎない子を集めてグループを作って、「私たちは仲がいいんですよ」って自分で自分らを売り出していた。中学生なんて「○○と△△、仲悪いらしいよ」とか「アイツぼっちじゃね?」とか「あそこ冴えないよねww」とか、他人が他人を常に格付けしあう世界だから、バカにされないよう、独りだと思われないよう、周りに自分が認めた人間を常駐させておくことに必死だった。少なくとも私にはそうにしか見えなかった。グループというのは、人数が多ければ多いほど上手くいかない。少なければ少ないほど絆は深まるし動きやすいし特別感がある。こんな理論で、私の入っている部活でも少人数グループの形成が行われた。団体競技の部活なのに、その中に少人数グループを作りやがったのである。当然グループ内の人間とグループ外の人間のあいだには溝が生まれる。部活の雰囲気はすこぶる悪かった。小学生の頃仲良くしていた友達が私をグループに入れてくれなくて、逆に中学で新しく仲良くなった友達をグループに入れている、ということがあった。それがとてつもなくモヤモヤした。小学生の時に一緒に同じ習い事をしてたのに、帰り道一緒に帰ってたのに、小学生ながらも辛いこと一緒に耐えてたのに、あっさり切り捨てられた。小学校で仲良くしていた数年間に何をすがりついてんの?と言われたような気がした。彼氏が出来たことを話してくれなかったり、私が知らないところでディズニーに行っていたりなど、ハッキリと私だけを除け者にして攻撃してきてた訳じゃないけど、小学生の頃仲良くしていたのが嘘だったみたいに、中学生では溝ができた。ここで私の良くなかったところは、こういう時に落ち度は自分にあるんだと思っていた点だ。私は話が面白くないし、大した長所も無いし、と自分の良くないところを考えて私が悪いからグループに入れて貰えなかったんだと考えていた。「周り」ではなく、「自分」が悪いんだと思っていた。毎日「私の事嫌いなんだろうな〜」とか考えてた。

 中学生という思春期真っ盛り期に形成された考え方は、自ずと人生のベースになってしまう。だから今も私の根底には「ニコイチが正義」とか「デカく笑うことが正義」とか「中学を卒業しても定期的に集合するグループが正義」とかいう意味の分からない教典が埋め込まれている。

高校生

 高校生の頃、本当の友達とは何かを知った。私の高校は、いい意味で他人に興味のない人しか居なかった。他人に干渉しないし、くだらない噂もしないし、いじめも無かった。私はここで初めて「私の中学校は異常者しか居なかったんだ」と気付いた。「自分」が悪かったんじゃない、「周り」が悪かったのだと気付いた。周りの目を気にすることなんて時間の無駄だということも、1人でいるということが立派な選択肢であることも、友達とは一緒に居たいから居るものなんだということも、大事なことは全て高校で教えてもらった。世界はとても広かったのだ。中学校なんていう狭い牢獄で見えない何かに怯えて生きてたのが馬鹿みたいだった。周りは知らない世界を沢山私に教えてくれて、自分のアイデンティティも高校で見つけた。自分に自信をもてる部分が出来た。私が本当の意味で産まれたのは、高校生の時だと言っても過言ではない。ずっとこの世界に身をおきたかった。

 高校を卒業した時、私の交友関係は狭くて深いことに気付いた。私は、中学の時に他人を疑うのが癖となってしまった結果、時間を担保にしなければ友達を信頼できない体になっていた。「時間」というどの人間においても、かけがえのない財産を自分に割いてくれているという事実でしか、疑いや不安を拭えないのである。そして、他人にとって時間がかけがえのないものであるように、私にとっても、当然時間はかけがえのないものである。私のことを大切だと思ってくれているんだろうな、という実感を得られる人に対してのみ、私も時間を割くのである。この考え方が私の体内に根を張り、今後の私の人生において重要な考え方となる。

大学生

 大学生、複数のコミュニティを両立することに違和感を覚える。他人においても、自分自身においても。
 前述の通り、私は、私のことを大切だと思ってくれているという実感を得られる人に対してだけ、時間を割く。だがこの理論でいくとある壁にぶち当たる。初対面の人と時間を共有して初めてその人は私の中で「友達」になるのに、私は初対面の人に時間をかけたくないのである。結果的に友達が出来ないのである。また「ニコイチが正義」という経典が私の中にはあるので、大学で友達をつくることが、高校の友達を裏切っているような感じがした。
 また、中学の嫌な経験が私をメンヘラにさせてしまい、1種の拗らせ理論が私の中にうまれてしまった。常に友人関係において大事なのは時間で、その時間が長ければ長いほど私はその人を信頼できる。でもそれは私の感覚であり、当然周りの友達は違う。友達にも友達の人生があって、大学生になったのだから、当然友達にも新しい友達ができる。私の友達である人間には、もう新しく仲のいい友達が出来ていて、その子たちと旅行に行っていたり仲良くお泊まりをしていたりするわけである。それがどうにも寂しくて裏切られた感じがしてしまう。3年間仲良くしてきた私と、3ヶ月前に仲良くなった他人が天秤で釣り合うのはおかしくないか、と思ってしまう。大学に進学したらそれは新しい友達を作るのが普通だし、新しい友達を作らない方が逆におかしいということは分かっている。私と他人は比べるものじゃないし、友達それぞれに違う良さがあることもわかっている。でも、インスタのストーリーで切り取られた一瞬を見た限り、どうしても3年間の友情と3ヶ月の友情に大差があるように見えない。それが違和感でたまらないのである。他人が複数のコミュニティ(対 私のコミュニティと対 他人のコミュニティ)を維持することは、私を不安にさせるのである。

これから

 今更中学生のときに張り巡らされた根っこを抜くことは不可能なので、これからも狭く深くの人間関係で生きていくけれど、ライフステージがあがるたびに出会いと別れがある。私の場合、別れを徹底的に拒むし、新しい交友関係を作り出すのもめんどくさいし裏切った感がある。今は時間があるから会おうと思えば会えるけど、社会人になって、信頼する人と定期的に会うことすら出来なくなったら、私はどうなってしまうのだろう。そういう絶対立ちはだかる壁に、私は負けないでいられるのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?