見出し画像

人生観

物事の二面性


 この世の事柄って、全て良い面と悪い面をもっている。全ての物、事に二面性がある。ある選択のYESかNOを選ぶとき、YESにもNOにも良い点と悪い点、メリットとデメリットが備わっている。YESをとったら、YESのデメリットを被り、NOのメリットを捨てたことになる。だから人は後悔する。でも結局NOを選んでも同じことが起こるから、後悔するのって無駄だ、というか、完璧な選択肢は無いのだから嫌なことが起こるのは当然である。

後悔って?


   そもそも後悔って概念、あまり分からない。あの時あっちを選んでいれば、と悔やむ。でも、その選択をした自分も自分であり、仮に「なんとなく選んだのが馬鹿だった」と悔やんでも、なんとなく選ぶのが自分なんだから悔やみようもない、というか、仕方がないだろう、って思う。世の中、タラレバの世界を現実世界と近く考えすぎだ。簡単にタラレバを言えるからそう勘違いしてしまうけど、タラレバってほんとに理想の世界で、そう簡単にタラレバ界の行動を実現できる訳じゃない。タラレバの世界は、実は現実世界とずっと遠く、所詮脳の中にしかその世界は無いんだ。

ゴールをいつとするか〈過程と結果〉


 めちゃくちゃ頭のいい友達がこんなことを言っていた。「お母さんに将来夢とかあるの?って聞かれたから冗談でお嫁さんになりたいって言ったの。そしたら結構ガチめに怒られた。『こんな中学高校勉強させて良い大学に入れたのにお嫁さんになるなんて』的なこと言われた。」この話がすごく興味深かった。この友達のお母さんは、お嫁さんになる20代頃をゴールとしているようだ。だからそのゴールが結婚となったとき、このゴールまでにかけてきた労力がこのゴールに見合ってなくて怒ったんだろう。
 でも思う。人間、なにが終着点なんだろう。今が終着点なのか、もしくは死が終着点なのか。今までの私は、無意識のうちだけれど、「今」が終着点だと思っていた。今が「結果」で、今が幸せじゃないなら、今までの「過程」を責める。過去の結果が今であることは事実だが、多分違うと思う。
 M-1の敗者復活戦で、バッテリィズというコンビがいた。このコンビの漫才でこんなやりとりがあった。
「絶対そんなやったらお前後悔するで」
そんなん死ぬまで分からんねん
このやり取りが凄い的を得ていると思った。この人は、「今」から見て今以前の過去を悔やむことを「後悔」と呼ぶのではなく、何十年先の「死ぬ」時から見て死ぬ以前の過去を悔やむことを「後悔」と呼ぶのである。後悔を起こす地点と期間がまるっきり未来にあるのだ。これの凄いところは、死ぬ以前の過去に「今」も「明日」も含まれていることである。今が幸せでも明日が不幸せになること、昨日はこの決断が最善だと信じて疑わなかったのに今日にはそれが最善じゃなかったと後悔すること。自分の歩いてきた道が良かったのかダメだったのか、という評価は今を起点に行われる。その評価は「今」と同様に、常に移り変わる。しかし、死というものからの評価は絶対的なものである。なんせ死は本当の最後であり、絶対的で安定しているからである。
 人間は今を生きるのに必死だし、将来が見えるわけでもないから、これから続いていく何十年先のこと、生まれてから死ぬまでの長い人生を俯瞰して見ることは出来ない。だから、今が全てという感覚があるのも必然的だ。今が幸せじゃないと過去を否定してしまうのも無理はない。でも、「死ぬ」ということがゴールであり、昨日も今日も明日も、すべて死ぬという終着点に及ぶまでの過程である、という考え方も取り入れるべきである。更にもう一足つっこむと、もはや過程とか、その過程が惹起した結果とか、もうそういう考えではなく、その事柄自体にフォーカスする考え方が本質だと思う。○○高校に行ったこと、△△大学に行ったこと、大企業に就職したこと、お嫁さんになること、それらを点と点で繋ぐのではなく、その各々の点を重んじてもよいのではないか。その点自体に価値や素晴らしさがあれば、それを線で繋ごうとはしない。その点があるだけで、十分だからだ。

結果によって判定されてしまう過程

上記の考えは、私の中で発した考えだ。以下は、私がまだどうにも結論がでない、人生に関する違和感である。

受験期、隣の席だった子がよく勉強のできる子だった。一橋大学進学を希望していた。実際その子は一橋に合格した。私の高校は大学受験が終わった高3生が後輩に受験指導をする機会が毎年あって、早慶上理やGMARCHに合格した人がその受験指導を担任からお願いされる。当然私の隣の子もそれに選ばれた。この時、私は思った。「この子がもし一橋に落ちていたら、受験指導の先輩にこの子は選ばれなかった。合格が決まって初めて、その子は後輩に受験指導をする機会を与えられるんだ。」と。結果が出て初めてその過程が正しいものだと判定される。それが、今の私の人生にある違和感である。

私には一瞬好きな人がいた。その人がダボダボのズボンを履いてるようなファッションが好きだと言っていた。だからその人と遊ぶ時、ダボダボのズボンを履いていったことがある。その恋は結局上手くいかなかった。その恋が失敗という結果に終わったことで、その恋のプロセスは全て不正解だったと判定されてしまう。このダボダボズボンを履いていったことを「らしくないことをするな、自分の好きな服を着ていけば良かったのに。」とダメ出しを喰らう。でも、もしこの恋が実っていたら、プロセスは正解だったと判定される。このダボダボズボンを履いていったことを「いいアピールのひとつになっていて良かった」とお褒めの言葉を貰えることだろう。

以上のふたつの事柄において言えるのは、やってる内容は一緒なのに、結果によって、それが正解か不正解かが決まる、ということ。そんなことたちが、すごく違和感である。そんなことを思う、最近の私である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?