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[実録]神仏との対峙 - エピソードツーお告げ

前回の投稿はこちら。
エピーソード☆ワン

前回は「口寄せ」について書きました。

今回はまずは「口開き」について書きつつ、神のお告げって本当にあるのね?って思った話をしたいと思います。

1.口開きとは


口開きとは、霊媒師が降霊をして一番最初に喋ること、簡単に言ってしまえば電話が開通するみたいなものです。

ただこの口開きは、意図したものと意図せずのものがあるように思います。

意図したものは、東北のイタコさんのような修行をされた霊媒師の方に起こるもので、意図しないものとは、いわゆる神がかりと呼ばれ、ある日突然、自分の意思とは無関係に起こる(起きてしまう)現象です。どうやら意図しないものは口寄せとは言わないようなんです。

後者で有名なのは、大本教の開祖である出口なおさんです。

わたしは霊能力を自覚する以前、たまたま「神がかり」について調べていた時期がありました。その中で知ったのがこの出口なおさんの存在です。

出口さんはお筆先などと呼ばれる自動書記によって神示を降ろした人として知られていますが、娘の出口すみさん(出口澄子さん)の手記には、出口なおさんが突然の神がかりで人が変わっていく様子が克明に記されています。その平凡で貧しかった母の身に起こった神がかりは、ますます貧しい家族の暮らしを追い詰め、すみさんの人生にも大きな影を落としたようです。

この手記を偶然わたしは霊能力が開花する前に読んでいたので、大変考えさせられました。

出口すみさんの手記『幼ながたり』は、非常に実直な語り口で家族の身に起こった出来事が書かれているので、ぜひご一読ください。(大本教の回し者ではありません(汗))その時代の人々の暮らしぶりも伺い知ることができる良著です。

↓こちらのサイトで無料で読めます。

神がかることで誰かを救うことはできるかもしれない。一方でご本人やご家族の人生が破壊されてしまう恐ろしさ。

わたしはこれを読んでいて、神仏と直接かかわることの恐ろしさを感じていました。

一方で、わたしが恩人たちのところでみた降霊の様子は、その恐怖心を一変されるほどの衝撃的なものでした。いや笑撃的というべきか(笑)

↓その時の様子(有料ですが…)

恩人との交流を通して、なんとなく神仏は恐いだけの者ではなく、親しむべき存在であるようにも感じ始めていました。

そしてまた、もう一つわたしも降霊をしようと思わせたエピソードがありました。

それは、ある神社での出来事です。

2.神社での出来事


その神社というのは、以前に記事にした「霊能力の開花前夜」に書いた神社です。

その神社とのご縁は、友達とたまたま山中をドライブ中に迷子になって行き着いた神社で、宮司さんがたまたま出ていらしてご縁ができ、たびたび訪れるようになったのが始まりです。

その神社自体の御由緒も大変不思議なものでした。

今はとある地域の一宮、神社本庁の別表神社を本庁としておられますが、元々は、宮司さんのお父様が創建されたのだとか。

お父様の創建に至る経緯を聞いて驚きました。

ある日、古神道学者をしておられたお父様の夢枕に白髭のじいが現れ、「〇〇山を開いてくれ」と告げてきたそうです。

お父様は、1度ならず3度も同じ夢を見て、流石にこれはおかしいと思ったようです。

江戸時代の文書(修験道者の修行場のガイドブックのようなもの)を調べたところ、本当に〇〇山という霊山があることを知ったそうです。

その文献をもとに、霊山があったであろう集落を訪れて青年団の方に話を聞くと、「その山を探しにきたのはあなたで3人目だ。」と言われたそうです。いずれの方も夢でお告げを聞いてやって来たのだと。

青年団の方も流石に何かあるのではないかと思って山狩を行ったそうです。するとある岩山から石が積まれた祭壇が見つかり、その岩山(磐座)を御神体として祀るに至ったとのことでした。

わたしも宮司さんに同行させていただき、その磐座の祭壇までお参りさせていただいたことがあるのですが、祭壇は想像していたよりも遥かに規模の大きい、とてつもなく神聖なものでした。とにかく石が細かく細かく繊細に積み上げられ、なんとも言えない空気が漂っていました。(60年前まで女人禁制であったとのこと。よく宮司さんは連れて行ってくださった・・・)

余談ですが、祭壇までは木々が生い茂り、急な斜面もある、かなり険しい道なのです。

そして宮司さん曰く「祭壇までは毎回同じ道は通れない。自然が変化していく。毎回行きつけるとは限らない。その変化自体が神の意思なんだ。」とおっしゃっていたのが非常に印象的でした。

どの時代の話か忘れましたが、一度神の逆鱗に触れ、山が閉ざされたことがあったようです。経緯は詳しく覚えていないのですが。

御神体まで行き着けないこともある。神の意思に従う。その寛容さ・・・今の現代人にあるだろうか。すごく感じ入るものがありました。

前振り長くなりましたが(汗)、修験道の修行場であった霊山が御神体ということもあってか、その神社は神仏習合でした。なので、わたしの霊障を心配した宮司さんが護摩祈祷を勧めてくださったのです。

宮司さんからご指定いただいた日時に伺いました。崇敬者の方が2、30名ほど一緒に護摩祈祷を受けました。

ご祈祷のあと、不思議な光景をみました。

ご祈祷が終わると、崇敬者の方々が一斉に紙とペンを出すんです。何事かと思っていたら、宮司さんが突然祭壇に向かって、何かをペラペラと話し始めました。

それを崇敬者の方々が一斉にメモっている・・・

よくよく聞いていると、〜に気をつけろ、とか、〜は明るいぞ、とかそのようなことが朗々と告げられるのです。

確か宮司さんは「かずたま」か「ことたま」とおっしゃっていたかと思いますが、のちに降霊により1年の吉凶を占うお告げであるということを知りました。まさに神がかりです。

神がかりは、トランス状態のようなものをイメージしていましたが、宮司さんはものすごく凛とされていて、朗々とされていました。それを見たわたしはなぜか「わたしもいつかこれをやるだろう」と思いました。

修行なぞ一切していないわたしが、めちゃくちゃ図々しい話です。

でも何故かふとそう思いました。

その儀式の終わりに、宮司さんがかずたま?付きでお供物を崇敬者の方々に分けるとおっしゃって、大きなお餅を持ち上げました。宮司さんが何故か崇敬者ではないわたしを指名するとお餅を差し出して、

「神と結ばれる」

とおっしゃったのです。

お餅を差し出されて、真っ先にわたしが考えたことは、「一人暮らしなのにこのお餅どうしよう」でした(笑)めちゃくちゃ特大だったからです。

でもすとーーんと腹に落ちました。

いま思えば完全に「お告げ」でした。

その時から、確かに「神の入れ物になる」イメージが湧いてきたんです。

自分にもできそう。

そんな気持ちでした。

そしてしばらくしてから「直接、神仏と交渉しろ」と恩人に言われ、わたしは決意しました。

降霊に挑むことを。

はい・・・

めっちゃ横道にそれました。

話が全然進まない・・・

すみません・・・

次回に続きます。

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