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Que son âme repose en paix

7月、ゴダール「勝手にしやがれ」、を観た話をメモしていたので、ジャンポールベルモンド逝去の知らせを聞いた今日、転載してみる。


10年前、わたしはジャンポールベルモンドとゴダールからフランス映画に憧れた大学生だった。


▽▽▽▽


「勝手にしやがれ」を久々に観たけど、久しぶりすぎてまっさらに観れた。

見終えて思ったことは、"どこまでもシンプルすぎて複雑な作品だ"、ということ。

今の自分の生活圏を照らし合わせるには
時代もお国柄も違って、すこしむつかしい。

「お互いに自分のことばかりを話してた」とミシェルが言うように、
終始噛み合っているようで噛み合っていない2人の意識の矢印ばかりが気になった。

この二人というのは
わたしにはどうしても目の前のその人を愛しているようには見えなくて、ミシェルは身体を、パトリシアは理想を、相手に見ているように思えてしまった。

パトリシアは、それが愛なのか、最後の最後まできっと、わからなかったのだと思う。

「最低だ」、と言われてはじめて自分の中にじわじわと何かしらかの実感が伴ったのかもしれない。

彼女はその日の夜一人で、この体感が、愛だったのかもしれない、なんて、涙も流さずに静かに驚きながら眠るのかもしれない、なんて想像する。

それでもきっと、「わからない」、に帰っていくのだろうな、とも。

ミシェルはと言うと、殺人から盗難を繰り返し、偽名まで使って生きて、指名手配。

「積み」のさらにその先に逃げ込もうとするその重責は計り知れない。

最後はもう、逃げ切ることよりも、眠りたくなるほどに。

眠りにつく時、隣に彼女にいてほしい。
眠りから覚める時、隣に彼女にいてほしい。

それだけの安心感を守るために、幾度となく嘘をつき、無数の人から、モノを、奪いながら生きてきた。

冷静に見たらばかみたいなのに、でも求めるものにまっすぐで、だから目が離せなくなってしまう。

パトリシアも、そうだったのかな、なんて思う。

そして何より本当のミシェルを見たかっただけなのだと思う。

借り物だらけ嘘だらけだとしても、見つめるその人はいつも、本当なのだ。

何故心惹かれるのか、何故一緒に居たいと思うのか、何故愛に似た感情が湧き上がってしまうのか。

嘘の言葉で作られたミシェルという人物を、その人の核を、知りたくなったのだろう。

嘘なんか、という彼こそが、その嘘で生き延びているのだから、彼の真ん中をどこで捉えたらいいのかわからなかったのかもしれない。

でもだからこその、ど真ん中のその人を、見たくなるのだと思う。


人は嘘を感知する。

きっとずっと、試していた。
この人は、本当なのか、と。

嘘が嘘だとわかったら、その嘘は真実となる。
事実を捻じ曲げるから嘘だと言われるのであって、嘘をそのまま嘘だと認識できたなら
それはもはや眼前に広がる事実だ。

最後に試した。警察への暴露。

"密告者は密告する"

ひどいわね、と彼女は言った。
それが自然だ、と彼は言った。

真実が光に晒される瞬間を見た。
事実を捻じ曲げたが故に制裁を受ける瞬間を見た。

時間は、戻らない。


ーーーーーーー観賞後のこの胸に突き上げるこの情動は、なんだったのか。

そして今日もまた、自分のほんとの輪郭に気づいた気がして、でもやっぱりわからないことがわからないまま、眠りにつく。

Bonsoir,madam.

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