企業側の言う「会話能力」は、日本語教師の考えるそれと同じではない

うちの会社が契約して日本語を教えにいっている企業の方や、知り合いの組合の方と話をする機会をもった今週、改めて思ったことは認識のずれを埋めていく作業が難しいということだ。

特に気になったことは、企業側の言う「会話頑張れ」というのが「ペラペラ話せるようになれ」という意味ではないということだった。

学習者は「会話頑張れ」と言われて、「とにかく話す練習をしないと!」と思う。
そして教師側も、自分の考えが表現できるようになることを目標として授業を進めていく。

しかし、「日本語が上手になった」と評価をされるのは、よくしゃべる人とは限らない。
仕事をする際に指示がスムーズに伝わることがありがたいという声が出る。
口数が多くなくても周囲の人の言うことが理解できていると「会話が上手になった」と認められていた。

ニーズの聞き取りをすると「会話ができるようにしてほしい」と言われる。
そこで教える側が「よしアウトプットに力を入れよう」と思うと、ずれが出てくる。
実は、発話の練習に力を入れていくよりも、聞いてわかる語彙を増やすようにしていくほうが、「会話が上手になってよかった」という評価を得られることになる場合がある。
仕事上もそうしていったほうがスムーズに進むことになる。

しかし、それでいいのかという考えても、当然ながらわいてくる。
話す力もやはり伸びていってもらいたい。
授業はどうしていくのがよいのか。

少なくとも教師は、自信の発話を学習者の理解可能な範囲だけにとどめていてはいけない。
少し難しいかもしれないと思うような語彙も知っていってもらわねば、一生懸命授業をした教師も、一生懸命勉強した学習者も、「こんな言葉も伝わらないのか」となって評価されない事態が起こり得る。

もちろん相手に語学習得の難しさなど理解を求める努力も必要であるが、相手に一方的に求めるだけで簡単に歩み寄ってもらえるものでもないだろう。

「会話が上手になってほしい」というのは、必ずしも「たくさん話せるようになってほしい」ということではないということは、頭に置いておくべきことだとは思う。

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