見出し画像

ことばの海に溺れる



少しでも圧力を感じると自分の喉から声が出なくなる。

いつもそうだ。面接でもそうだし、家族などと話しているときも。喋りたいって言うことがあったとしても、事前にこういうことを喋ろうと決めていた時も。

そうなってしまったら、急に声が出なくなる。喋ろうと思っていたことも、これではきっとこういう理由で否定されるのでは。より正しい返答があるのではないかとなってしまって一言も喋れなくなる。

普段から人並み以上には本を読んでいると自負おしているし、小さい頃からそれを続けてきたから語彙も多少は多いと思っている。
それこそ普段はそれらのことばが、私の周りにぷかぷかと居て、こういう話がしたいなら自分を使ったら良いんじゃない?とかこういう話題があったよね、振ってみたら?と海水浴場で水と戯れているときのように言葉が自分のすごく近くに集まってくれるような感覚だ。

でも、そうじゃない時。面接の時や少し重苦しいような発言が許されがたいかのようなあの雰囲気になると、その水たちも普段が嘘であるかのように冷たくなる。
まるで南国のビーチかのように普段は優しく私の周りをぷかぷかとしてくれていたことばたちも、ひとたび変わってしまったら、日本海の深い深い黒、そして何人たりとも近づけることの無いようなあの海。まるでそれであるかのように振る舞う。
普段だったら流れるように出てくるのに、ことばの通り道を自ら塞いでいくかのような、そんな感覚になってしまう。

もちろん、ガキみたいなこと言ってるな。だの、甘ったれた意見だな。というような事を言われるのは十分承知している。また本当に語彙力があるならそういうところでもきちんと話せるはずだ。そうやって言ってただ自分自身から逃げているだけだ。と思うような人もいるということは勿論分かっている。

でも実際、私はそうなったら話すことができなくなってただただ縮こまるだけになってしまうし、反論もなにもできずに場が終わってしまう。そして、そうなった後に強く後悔して、あぁあの時こう喋ってればよかった、こういう意見を言ってたら何か変わってたかもしれないのに。と猛省をして、次こそは言うんだ。と決意する。
でも結果は変わらない。


 要は私は………

要は私はコミュ障なのだ

ただただコミュニケーション能力が欠如しているのだ。
ここまでだらだらと話をして結論がそれかよ。と思うかもしれないけどそれは違う。
“現実だと硬くなって喋れなくなってしまうような人間であるのに、インターネットのような面と面で向き合うことなくコミュニケーションをとることができるツールにおいてだらだらと話をしている“という事自体が私がコミュ障であると強く示している。

現代は、ほぼ全員の手元に存在するこの板っきれ1枚のみで完結する社会だ。完結してしまう社会なのだ。
そしてこれからの時代SNSだけで会話を終わらせるという人は間違いなく今まで以上に増加していく。
そうすると、今の私のようなコミュニケーション能力が欠如している人間がより増えていくという事だ。

きっと社会に出てもしくは今もう出ている人の中で、私と同じような人。そして私のような突然縮こまってなにも喋らない人間に出会ったことがある人は間違いなくいるだろう。
そういう人にもし出会ったなら、ああきっとこの人は自分自身のことばに溺れているんだな。と思って少し優しく、そして口頭ではなくチャット上などで言いたいことをゆっくりで良いからまとめさせてあげて欲しい。
そうすればきっともしかしたら彼らの本心が伝わってくるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?