虚無を超えて

2019/09/02

先日、哲学を一緒に学ぶ人から、だいたいこんな趣旨の質問を受けました

「僕らは、哲学を利用しながら、社会の不条理、理不尽と戦い、世の中をよりよく変革していくという目的を持っているという共通点があります。しかし、"なぜ戦うのか"、そして "何と戦うのか" といった点はいまだにハッキリしていません。例えそれらがハッキリせずとも、僕は自分の道を選び、社会を変えるという目的のために戦っていきます。
君にとって「戦う姿勢」とは何でしょうか?」


ちょうど最近悩んでいました。

社会を変革したい、、が、なぜ変革するのか?何と戦うのか?戦うのなら敵は誰か?自分にしかできないこととは何か?何をすべきか?

まず思い浮かんだ答えはこうでした

「戦うべき敵も、なぜ戦わなければならないかも、そこに戦いが存在しているかもわからない状態なので、そもそも戦いたくない」

しかし、彼にはこういう話は送りませんでした。それは、彼は虚無主義を乗り越えて、突き進む道を選択しているように見え、僕も虚無を乗り越えて生きていかなければならないことを深く感じたことが一因です。現状を考えるいいキッカケだと思いました。そこで、これまでの自分を振り返り、考えたことを「彼への返答」風に載せます。

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丁度良い問いかけをありがとうございました

「戦う姿勢」についてですが、僕はいまだに、自分自身が何と戦っているのかハッキリとはわかっていないことを再確認しました。前よりもわからなくなってきました。社会の不条理や、不自由、格差と戦いたいという思いはありますが、その根拠はまだしっかりとしていません。ずっと考えていても答えはでない気もします。しかし、ここに確信を持てるようになって、つまり、成すべきことが何なのかがハッキリとして、初めて真の戦いが開始できるとは思います。




人生において、なぜ自らの一生を"戦い"に捧げなければならないのか、という思いがあります。自分が幸せに生き、身の回りの親しい人に幸せをわけ、みんなで楽しい暮らしを送っていればそれでいいんじゃないのかという思いが正直あります。何も社会のためにだとか、大きな言葉を使わなくとも。



また、人間の認識はどこまでも主観に囚われていると考えると、結局のところ戦いの「敵」や、不満や悲しみは我々の主観が生み出しているだけと言えます。考え方を変えるだけで、満足感に浸れる「足るを知る」を実行するのが幸福へと至る道なのではないかとも思います。



そもそも善悪がハッキリしない。善悪ということがら自体、あるのかもわからない。悪だと糾弾する対象は、見方を変えれば正義かもしれない。大多数が正義だと主張しても、真理としては、悪かもしれない。(そもそも真理に善悪という概念が含まれるならば、の話だが。)



こんな状況下で、自らの思想信条を押し通して生きていくことは、何とも自己中心的で、バカげていることではないかと思います。

この世の全ては、それが存在しているかどうかすら疑わしく、世界は無益で無意味だという意見は論理的には反証できない強い主張だと思っています。

"絶対的"だと誰もが同意して言えるものが何も存在しない世の中で、その意見への反論はとても難しいです。



しかし、僕らは生きていく中で、例え全てに意味がないとしても、自ら意味づけをしながら生きています。我々は一人で引きこもって暮らしていても、社会で生きている限り、何らかの思想信条を持って生きていることになってしまいます。常になんらかのポジションを取っていることからは抜け出せない。人との交流を断っていようとも、腹は減ります。例えばコンビニに昼ごはんを買いに行ったとします。

その行為は、コンビニというものが象徴する効率性や、資本主義の概念に、身体で全身で賛成の意を表している行為だともいえますし、ジーパンをはき、Tシャツを着て買いに行ったのなら、外に出る時は服を着るべきだという規範に賛成していることになり、また、欧米からの文化流入も肯定していると捉えることができます。別に普段行動していてこんなことは意識しないかもしれません。しかし、我々はただ生きているだけで「他の人々が積み上げてきた規範、秩序、世論、風潮」といった環境要因を肯定しながら生きているのです。我々は自らの思想信条を好む好まざるに関わらず、必ず選択して生きている。



その中で、自ら積極的に、自分の思想信条を唱えなければ、それは無条件に他人の思想信条を"選ばされている"ことを肯定しています。たしかに自分の思想信条は、自分の生い立ち、環境、遺伝子、運命、もしくは偶然の積み重ねの中で、自らの意思など存在せずに形成されているのかもしれません。しかし、だからといって、自分の意思を主張しなければ、その人の行動は、他人の思想信条の塊である、完全なる外部環境からの影響によって規定されると考えられます。

自分が1番、自分を肯定できる生き方を知っているはずですから、他人の思想信条に従って生きるよりも、自分の思想信条に従って生きるほうが個人の幸福にとって良いだろうということは想像できます。人間は、脳が快感を感じる生き方を追求する生き物ですから、シンプルに生物の摂理として、自らの思想信条を主体的に選んで生きていくのが良いのでしょう。



人間社会が、複雑な相互作用系として成り立っていると考えれば、我々はたしかに環境からも影響を受けているが、同時に、我々もまた環境に対して影響を与えていると言えるでしょう。
世界には抗えない流れというものがあります。ですが、それはこれまでの人々の思想信条の集合体であります。それは人々の意識が変わるとともに変化していくものであるので、中々変わらないと同時に、いち個人で変化させることができる可能性もあります。自らも社会に対して無意識でも常にある立場を表明しているのだと考えると、主体的に、思ったことを発信するのも別に悪くはないのでしょう。

人間の社会はそうしてできあがってきました。好む好まざるに関わらず、日々の生活の中で人々が表明してきた主義信条のかたまりとして社会ができています。複雑な相互作用系の、ある一部分の個体の健全な振る舞いとして、自らの思想信条を主張するということが含まれており、事実上我々は言葉にするしないに関わらず主張しているわけですから、言葉,行動にすることに対してこだわりを持つことこそ無意味。顕在化させて他者に伝えなければ、他人の主張にのまれる一方なだけであり、自分の価値を残したい(また、後世にいいものを残したい)と思う生物的本能とがあれば、少なくとも他人の主張にのまれるよりは、自らの価値提供により、せめて価値があると信じられるものを残すしかないと結論づけます。自分が、過去の世代・周りの人間よりも、より本質的かつ真理に迫る主張をしていると信じて。

そうすることで人類という系全体に対してわずかながらでも良い作用をすることができる。



他人の生き方を借りて生きるのではなく、自ら設定した生き方に沿って生きる。自らが設定した人生の目的に沿って生きる。ここに妥協しないこと。
これが僕にとっての「戦う姿勢」です。
環境からの圧力にのまれる自分と戦い、自分の暗黒面と戦い、虚無や悲しみに覆われそうになる自分と戦う。
これが真の戦いであって、おそらく「戦う姿勢」という言葉が意図しているであろう"社会との戦い"はその個人的・内的な戦いの中に含まれる一部を指すのだと思います。



そして、僕は、かなり大枠で言えば「社会をよりよくする」という曖昧ではありますが、強力な目標のもとでこの人生を歩みますし、もっと小さな枠で言えば、「幸せな生き方というものをまず自分とその周りの人の間で模索する。そのうえで他者と協働して個人と集団の幸せな在り方を一般化し、それを具体的に効力を発揮する目に見えるものとして広く人々が享受できるようにする」という目標もあります。政治や経済の新しいシステムをつくるという目標はここに関わるものだと思っています。


この意味でいけば、日々、人はどう生きるべきか、幸せとは何か、を考え、また自ら実践していることは、"戦っている"と言えると思っています。
結局、細かく具体的な戦う相手はまだ決まっていません。戦う相手は誰か?という問いに対して明確な解答にはなっていませんが、今はこういう答えでいいかなとは思います。ただし、今回の反省を通して、己の生き方を貫くということだけは徹底したいなと思いました。




結論
真に客観的に見たとしてこの世界には全く意味がないのかもしれない。
だがしかし、人間は常に世界に対しての意味づけをやめない。やめることができない。
自らの思想信条を主張するべきかしないべきかの論争はそもそも無い。なぜなら我々は生きているだけで何らかの思想信条を主張しており、影響を与えているからである。世間的な"主張"という言葉の意味は、主義信条を言語化するか否かの差である。
よって、自分の思想信条を言語化し、積極的に世の中に伝え、影響を与えていくことは、世界全体の健全な働きの一部であるし、恐れることはない。

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