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REPORT『熊倉陽介先生ご講演「医療者の内なるスティグマ」』(2020年6月6日)

本レポートは『療法士の当事者研究「研究会vol.1」(2020.01.26)』の内容となっております。

熊倉陽介先生ご講演「医療者の内なるスティグマ」

「療法士の当事者研究」…ってなに?

 今回、「療法士の当事者研究」の初回をやるから来て、と、お声かけ頂きまして。ありがとうございます。だけど、正直申し上げますと、最初は意味が全くわからなかったんですね。(会場:笑い)なんなのそれ?おれの仕事なの?みたいなところから始まりまして。それで、療法士の友達とかいろんな人に相談しながら、療法士の当事者研究ってなに?ということを考えました。まずは一旦拡張させて、対人支援の専門職の当事者研究ってなに?ということを考えました。それから、精神科医の立場から、療法士の当事者研究第一回でお話しできることは何かと考えました。

 それで結局、今日は、「医療者の内なるスティグマ」というテーマで少しお話させて頂いてから、実際に当事者研究を少しやってみるという構成で考えています。当事者研究やったことある人ってどれくらいいらっしゃいますか?何人かいらっしゃいますね。僕は当事者研究の専門家でもなんでもない素人なので、うまくファシリテートできるか自信はないんですけど。方法は厳密でなくてもいいのでとりあえずやってみようというのが当事者研究のいいところらしいので。あとで実際にみんなでやってみたいと思います。結構、体験されたことがある人がいらっしゃるので、お手伝い頂ければと思います。あとは、この場で仲良くなるということが大事なことだと思いますので、2人組で「当事者研究ワークシート」を使ってやってみて頂いてから、4人組でシェアという形でやろうと思うんですけど、いいでしょうか。では先にその4人組で、お互いに自己紹介をしましょうか。

 (グループ作りと自己紹介)

 どうでしょうか。お互いに話して、緊張感あふれていた部屋の空気が、少し変わって感じますでしょうか?(会場:笑い)身体感覚が大事ですので。ではよろしくお願いします。

支援者が持つマジョリティ性とマイノリティ性への自覚

 支援者が当事者研究をするというのが、流行ってきていると思うんですね。けれど、ここには違和感というか、何か引っかかるところがあります。当事者の方達が、専門職の権力や、専門知による支配に対抗する形で、自分たちの手で自分のことを物語ることばを取り戻すという運動性が、当事者研究には含まれていると思うんですね。それを対人支援の専門職が、再び奪い返してしまうようなことになるのではないかという懸念があります。ここで自分達が気をつけなければいけないのは、そこに歴然と、資格や支援する/される関係性の中での権威勾配が存在しているのにも関わらず、専門職があたかも同じ立場であるかのように「私も同じように辛いんだよ」と言い出すことではないかと思います。Twitterで患者さんの悪口を平気でつぶやく医療者とか結構いますけれども、そういうのはやめたほうがいいと、個人的には思っています。専門職が当事者研究すると言って「苦労」について語り出して、それが単に患者さんの悪口を言っているのだとすれば、それは倫理的ではないように思います。他人のことではなくて、自分のことを研究する、他者のことを勝手に研究しないというのが当事者研究の大事なところだと思います。

 そういう風にはならないようにすすめていった方がいいのだろうと考えましたので、男性学やマジョリティの研究をなさっている西井開さんという方がいらっしゃって、事前に相談させて頂きました。お会いしたことないのですが、twitterでいきなりDM送って、相談させてくれって言ったら、いい人で、Zoomで相談させてもらいまして。この本(真のダイバーシティをめざして 特権に無自覚なマジョリティのための社会的公正教育)を紹介して頂きました。簡単に言えば、フェミニズムが女性の権利を勝ち取ってきたことに対して、男性学が「俺らだって辛いんだよ」と言っていればそれでいいのか?というような問いとつながる問題意識だと思います。

 専門職が当事者研究をしていく上では、持ち合わせているマジョリティ性に気づくということも大事なのだろうと思います。さっき田島先生がお話なさっていた、「障害受容」ということばを問い直す研究などにもつながっていると思います。

 その一方で、専門職もシステムの中で抑圧されていたり、希望する支援が様々な制約によってできなかったり、クライエントとの関係性の中で暴力的な体験をしてトラウマを抱えていたり、様々に傷付いています。別のマイノリティ性を持ちあわせている支援者も当然いると思います。支援者の当事者研究においては、自らのもつマジョリティ性とマイノリティ性、両方それぞれを自覚していくということが必要な営みなのではないかと思います。

 犯罪の加害者が更生する過程で、自らが社会の構造の中で被害を受けていた被害者でもあるということを認識したり、他者に語ることができたりすることが、自らの加害者性を引き受けていく上で大切なプロセスになるということがあると思います。いま支援者の当事者研究が流行ってきていることともつながっているような気がしています。支援者も自身の属する支援システムの中でどうしようもない生きづらさを感じているということを言語化したり解明したり、それを話し合って癒されるということが必要とされているし、それをすることと同時に、支援の専門職がどのような特権、権力をもっていて、どのように支援が暴力的になることがあるのかを見つめなおすことも必要です。

 そういったところが、もしかしたらこれから支援者の当事者研究に取り組んでいく上でのポイントになるかもしれないと考えたので、「医療者の内なるスティグマ」というテーマから話をはじめて、自分のもつマジョリティ性とマイノリティ性を切り分けた上で、それぞれ精緻に解明していく作業からはじめてみるという提案をさせて頂くことにしました。

医療者の内なるスティグマ

 精神保健サービスや対人支援、その研究を専門職だけが勝手に行うということに対して異が唱えられています。当事者や市民と専門職との共同創造(コプロダクションと言われています)することが大切だ、と、国際的に言われる時代になってきました。研究においても「Patient and Public Involvement(患者・市民参画)」という流れがあります。当事者がただ意見をきかれるだけではなく、どれだけ研究に深く参加しているかということが語られるようになっています。natureという雑誌で共同創造の特集が最近ありました。Lancet Psychiatryという雑誌にも、ユーザーが査読者として加わるというコメントがありました。

 日本でも、脳性麻痺をもつ小児科医の熊谷晋一郎さんをはじめ、様々な疾患や障害をもつそうそうたる当事者たちが、「専門職が勝手に研究するテーマを決めるのではなく、当事者が真に役立つ研究すべきテーマを、座談会をひらいて決める」という試みをはじめています。それがこの、「当事者研究と専門知 生き延びるための知の再配置」という本でした。ある日、この当事者たちの編集会議から、執筆依頼がきました。テーマは、「医療者の内なるスティグマ」でした。「精神科医は、クスリのこととかはいいから、とにかくあなたたち医療者の内なるスティグマについて、ちゃんと考えなさい」というようなメッセージなのだろうと認識しました。このテーマは、自分で考えたわけではなくて、赤紙みたいに期せずして与えられたものだったんです。ぼくだけに与えられたテーマと思わないで、他人事ではないものとして一緒に考えていただきたいんですけれど。そう言われても「スティグマってなんだ?」、「どんなクマだ?」みたいな(笑)。そういうところから始まるわけですね。

 まずスティグマに関して基本的な概念を整理しておきます。こんなふうに分割されています。

公衆スティグマ public stigma
:社会の中にある、薬物依存などの少数者に対する偏見や差別
自己スティグマ self stigma
:疾患をもつ個人が他の人から偏見・差別を受けていると感じる
構造的スティグマ structural stigma
:規範やルールや法律や価値観など、社会に埋め込まれている、様々な構造的な要素に宿っているスティグマ

 社会の中に存在している、薬物依存症をもつ人をはじめとしたマイノリティに対する差別・偏見などが「パブリックスティグマ」。社会の中にあるスティグマは個人の中に内在化されていきます。いざ自分が薬物依存症や精神疾患、あるいは様々な差別・偏見を受けやすい状況におかれた時に、そのスティグマが自分に対して向かってしまうことを、「セルフスティグマ」と言われています。セルフスティグマは、「助けてが言えない」要因にもなり得ます。そして、最近着目されているのが、この「構造的スティグマ structural stigma」という概念で、これは規範とかルールとか、法律とか価値観とか、社会の様々な構造の中に埋め込まれているスティグマです。

 物質使用の文脈で言えば、薬物が犯罪であるという厳罰主義の刑法自体が、構造的スティグマとして作用していて、薬物使用している人を社会から疎外している。その上、「ダメ絶対」のような偏見や差別を助長するような誤った啓発が行われて、パブリックスティグマが醸成される。それがセルフスティグマにもなり、援助希求がしづらいという状況を作り出す。こういうことが、重大な「健康の社会的決定要因 social determinants of health」になっているということが着目されています。

 「健康の社会的決定要因」というのは、健康の原因は健康意識や行動などの個人の要因だけに規定されているわけではなくて、社会のあり方、たとえば法制度であったり、スティグマであったり、貧困や経済格差など、様々な社会的な要因によって個人の健康が阻害されている、という考え方です。そういった「健康の社会的決定要因」と、身体的健康の増悪と精神的健康の増悪が、ぐるぐると悪循環をきたして、様々なマイノリティの立場にある人の健康をさらに阻害していく。このような状況に対して、対抗する必要があります。医療の領域ですと、社会的処方(social prescribing)が大事だと言われるようになって来ています。薬を処方するだけではなく、医療現場に訪れた人に、必要な社会的なサポートを提供するソーシャルワークをする必要があると、医学教育の中でも少しずつ強調されるようになっています。病気だけじゃなくて暮らしとか生活のことをちゃんと見ることが大事だという、当たり前のことなんですけれど、当たり前のことをどうしてわざわざ言わなければならなくなってしまったんだろうと、医学や医療のあり方を振り返って見つめなおすことが大事なのだろうと感じています。

助けてが言えない

 自分は主にホームレス状態にある方とか生活困窮されている方、重複障害のある人などを臨床の対象にしていて、なるべく物質使用(substance use)やアディクションのことと、精神的健康と、身体的健康とを一緒に診るように心がけています。

 日本で「ホームレス」というと路上生活者を想像すると思うんですけど、これは国際的には非常に狭くとらえたホームレス概念です。「rooflessness(屋根なし)」「houselessness(家なし)」「living in insecure housing(安全ではない住まい)」「living inadequate housing(適切ではない住まい)」など、欧米では広く捉えたhomelessnessが定義されています。精神科病院に長期入院している状態、簡易宿泊所(ドヤ街)に住んでいる状態、刑務所に入っている状態なども広い意味でのhomelessnessです。

 松本俊彦先生が編集された「助けてが言えない」という本にも書いたのですが、ホームレス状態にある人と精神科医として関わっている中で感じるのは、長期的な展望や希望をもてない人が多く、セルフネグレクトと言われるような状態にある人が少なくないことです。よくよく話を聴いてみると、少なくない人が虐待などの小児期逆境体験(Adverse Childhood Experiences)を語ります。虐待などのトラウマ、言語化されない痛みを抱えていて、Fight-Flight-Freeze response(闘う-逃げる-固まる反応)を繰り返して失踪するなど、対人関係の断絶と共にホームレス化していく人たちです。トラウマの影響から、「楽になってはならないという呪い」と言われるような「心理的逆転」している人もいます。こうすれば人生が上手くいくと分かっているほど、そうではない道を選びやすいということです。トラウマの「再演」という現象を理解することも大切だと思っています。お父さんにボコボコに殴られた。お父さんによく似た上司に、怒られたりボコボコにされて、失踪して住まいごと仕事を失った。こうした失踪や断絶を繰り返しているということに、少しずつ気付いて、そうではない関係性をゆるやかに築いていくことが支援の上では大切になってくるからです。自分の感情に気づきづらく、マイナスの感情を表すことばも少ない。松本俊彦先生がよく、安心して人に依存できない病が依存症だとおっしゃっていますが、トラウマや痛みを抱えていて、そのつらさをやり過ごして生き延びるために自傷行為や物質使用を繰り返している人もいます。援助希求しづらく、「助けてが言えない」ような人に対して、どのようなことができるのか、対人支援の専門職の振る舞いや、支援構造を見つめなおす必要があるのではないかというのが、「医療者の内なるスティグマ」という課題意識が必要となる一つの理由ではないかと思います。

トラウマインフォームドケア

 ここでトラウマのことを少しお話しします。当事者研究をやっていく中でも、エピソードレベルで自伝的記憶を語り、物語を再構成していくということは、トラウマのワーク的な意味があると思います。小児期逆境体験、すなわち、虐待やネグレクト、家庭内暴力などの子どもの頃のつらい体験が多ければ多いほど、後々の心身の健康に与える影響が大きいと言われています。小児期逆境体験が健康リスク行動を増やしたり、慢性的な不健康につながりやすく、医療サービスへのアクセスもしづらくなるなどと言われています。

 最近注目されているトラウマインフォームドケアという時に、トラウマという概念が、広い意味で語られるようになってきていると思います。自然災害やレイプなどの人災、事故などはまさにトラウマティックな体験になりますが、大切な人の死など、自然に日常の中で起こるような出来事までも含めて、広い意味合いでのトラウマが取り扱われるようになってきているような気がしています。

 トラウマ記憶にはいくつかの特徴があります。時間軸がばらばらで断片的になってしまうこと、過去が繰り返さるように引き戻されたり、色褪せず鮮明に想起されてしまうという特徴がありします。トラウマ記憶は、想起に苦痛な感情を伴います。フラッシュバックして、あたかも過去と同じかそれ以上に生々しく体験したりします。unspeakableと言いますが、言葉になりにくい、語ろうとしても言葉にならずつまってしまうということも特徴であったりします。フラッシュバックを起こすことがつらいから、それを想起させるような場所や人と会うことを避けて、引きこもるような状態になることもあります。鬱っぽくなったり、逆にイライラしたり、破壊的な行動になったりなどの影響もあると言われています。肩こりや頭痛、腹痛など、自律神経失調に伴った身体症状が出やすいことも特徴です。「Fight-Flight-Freeze response(戦う-逃げる-固まる反応)」を起こしやすくなるとも言われています。すぐに喧嘩してしまったり、その場から逃げてしまったりということが繰り返されやすくなります。

 こういったトラウマの影響を、支援者の側がきちんと熟知してケアにあたることが大切だと言われるようになってきました。「トラウマインフォームドケア」と呼ばれています。トラウマインフォームド、と言うのは、トラウマの影響を受けたクライエントをトラウマにフォーカスして治療しましょうという意味ではなく、トラウマの影響がいかにクライエントや支援を受ける人に影響を与えているか、そして支援者にもトラウマが影響を与えるかということを、十分な知識を持って熟知してケアにあたる、という意味です。理解して、気づいて、対応する。再受傷させない、再体験をさせない。それがトラウマインフォームドケアにおいて大事だと言われています。

 「医療者の内なるスティグマ」というテーマで研究する必要があると、当事者の方々が言ったのは、「あなたたち対人支援の専門職のもつスティグマが、支援を受ける人に対してトラウマを再体験させているということに自覚的になってくれないか」というメッセージだと、僕は受け取りました。これについて専門職が自覚的にならなければいけないのではないか。このような要請の中で、対人支援のパラダイムは転換しつつあります。ここではハームリダクションとハウジングファーストという新しい支援のあり方を、トラウマインフォームドケアの具体的な実践のあり方の例と位置付けて簡単に紹介します。

ハームリダクション

 ハームリダクションということばを聞いたことある人はどれくらいいますか?聞いたことのない方の方が多いですね。では簡単に説明します。

 薬物使用について、「薬物戦争だ!」と言って、とにかく厳罰主義で取り締まっていけば良かろうという時代がありました。日本は今もそうですが。とにかく取り締まっていくと、薬物使用はアンダーグラウンド化して見えなくなっていくので、国家の目に見えないところで薬物使用が広がり、それと共にHIVやC型肝炎などの感染症も蔓延してしまう。日本で言えば、危険ドラッグが、取り締まりが強化される中で本当に危険性を増していったという例もあります。厳罰主義と取り締まりに基づいた「薬物戦争は敗北だった。」と、国際的には結論づけられていて、それに対するオルタナティブな対策として、ハームリダクションという方法が現れてきます。これは物質を使用してしまうことで、社会や個人にもたらすハーム(危害)をリダクション(低減)するという、公衆衛生戦略です。たとえば例として、注射針交換プログラムが挙げられます。薬物を使用した際に、薬物自体の影響はもちろんありますが、不潔な注射針を回し打ちしてC型肝炎やHIVに感染してしまうことがある。それによる健康被害が大きいんですね。それに対して、薬物は駄目だ駄目だと言って取り締まっていても、結局見えないところで注射針を回し打ちして感染症が蔓延してしまう。そこで、薬物を使うことに対しては、non judgement(判断しない)、咎めない、という方法が産まれました。安全なこの場所で、清潔な注射針をつかって頂く分にはどうぞ、というスタンスです。人は薬物を使うものだという認識に立って、それによって起こっているハームを減らす、この文脈で言えば感染症の蔓延というハームをリダクションしようというアプローチが、ハームリダクションの基本的な考え方です。コンドームを配るということも、人はほっておいてもセックスするものだという現実を前提として、それを責めるのではなくて、感染症や望まれない妊娠を防ぎましょうという意味ですね。ハームリダクションは公衆衛生学的価値に立脚しているわけですが、それ以上に倫理的であることが大切なんですね。薬物は駄目だ、厳罰だ、と言っていると、薬物を使用しながら苦しんでいる人が、苦しんでいることを相談できないんですね。薬物を使っている人の中には、本当は困っている人が多い。でも、色々つらいことがあって、薬物もつかってしまっていて、やめたほうがいいと思っているけどやめられないんですと相談したら捕まってしまうという状況では、相談できるはずがない。そこで、安全な場所で注射針を交換しながら薬物をつかってもらって、実は色んなことで苦しんでいるんですよ、ということもついでに話せるようになったりとか。そういうような効果もハームリダクションという方策の中には見込まれている。本当に困っている人を相談支援から排除しないという、倫理に基づいた支援論なんだと思います。薬物使用しているということに対してはnon judgement(判断しない)の姿勢で、一人の人間として丁寧に接する、出会うことができる場をつくるということがハームリダクションアプローチなのだと思います。これが海外で実践されつつある一方で、日本ではまだまだ実践されていないのが現状だと思います。

 薬物使用に対して実践されていないのが現状ですが、ハームリダクション的なアプローチをとる取り組みは様々展開されています。その例としてハウジングファーストの話をします。

ハウジングファースト

 ホームレス支援のあり方にも、パラダイムシフトが起こってきています。ハウジングファーストという取り組みです。ハウジングファーストは、「安全な住まいを得ることは基本的な人権である」という、強い価値観に立脚しています。現在の日本のホームレス支援のあり方は、ステップアップモデルと呼ばれる方式で行われています。僕自身も自立支援センターで嘱託医として働いていますが、このモデルは、まずはシェルター、寮のようなところに入所してください、そこで医療が必要な人は治療を受けてください、就労支援を受けて仕事について、お金を貯めてください、お金が貯まって準備ができたら、アパートに転居しましょう。基本的にはこういう順番で、「ステップアップ」することを念頭に作られています。このステップアップモデルでうまくいく人はもちろんこのモデルも有効なのですが、たくさんの複合的な困難を抱えている人ほど、こうしたステップアップモデルの支援の中ではうまくいかず、再び路上生活に戻ってしまう、ということが起こっていると感じています。

 たとえば、寮の中で同じ部屋の人や職員と喧嘩になってしまったり、イジメられたりして寮を自ら出てしまう。禁止されているお酒を飲んだだけなのに、退寮になってしまう。職場で同僚や上司とトラブルになってしまう、というようなことがおこります。こうして、様々な形で、失踪と断絶の再演が起こり、再び路上生活になってしまう。既存のステップアップモデルの支援では、安定した住まいを得るために様々なハードルがあり、その途中で挫折してしまいやすい。これがステップアップモデルの限界です。もちろんこのモデルは、良かれと思って考えられている。この、良かれと思って、ということも、支援者の内なるスティグマであり、構造的スティグマでもあると言えるかも知れません。こうした支援構造が、安全な住まいを得るという基本的な人権をそこねているのではないか。このような課題の認識から浮かび上がってきた、支援のあり方のパラダイムシフトが、ハウジングファーストというモデルです。

 ハウジングファーストは恒久的な住まいを得ることは基本的な人権であるという強い価値に立脚しています。そして、住まいを得ることと、治療や支援を受けることを、完全に分離・独立させる、という考え方が根幹にあります。つまり、住まいを得るために、治療や断酒断薬をすることを求められることはないし、「良くなる」ことを求められてもいない。治療や支援を受けることは、住まいを得るための条件にはならない。住まいは基本的な人権であって、鍵のかかる安全で安心できる空間は、誰でも条件なしで得ることができる。それは基本的人権であって、誰に対しても判断されることなく住まいが提供される。ということが、ハウジングファーストの考え方の基本的な点です。

 そして、単に住まいを提供するだけではなく、本人が望むのであれば、継続的なサポートが重点的に提供されます。訪問での重点的なサービスが提供され、もし仮に住まいを一旦失って路上生活に戻ってしまったとしても、本人が望むのであれば支援は継続されます。住まいと、治療や支援と、このどちらかが仮に失われても、ハウジングファーストは続き、本人が望めば何度でも再びアパートに住むことができるし、支援を受けることもできる。そのどちらかは、もう一方の条件とならない。

 ハウジングファーストはリカバリー志向であり、ハームリダクションのアプローチでもあると言われています。

 ハウジングファーストの高い効果を示したエビデンスがあります。たとえばカナダの5つの都市で、約2000人のホームレス状態にある人を2群に分けた無作為化比較試験では、従来の支援と比較して、ハウジングファーストのほうが、Housing stability、つまり、住まいの安定が、どの都市においてもはるかに良かった、という結果が出ています。(Aubry, Tim, et al. 2015.) ハウジングファーストは条件なしで住まいを提供するというモデルなので、住まいの安定ということを目的とした時に高い効果を発揮するのは、当たり前のことなんですね。ホームレス支援をしようとしているにも関わらず、どうしてこの当たり前のことができなかったのか、できないのか、ということを考える必要があります。

 支援構造の中に入っていた、支援者のスティグマや、道徳的な価値観を捨て去って、とにかくこの人たちが住まいを維持できる支援のあり方を考えたらこうなった。パラダイムがシフトした。そういう取り組みから学ぶことが大きいなと感じています。

トラウマのパラレルプロセスから回復のパラレルプロセスへ

 トラウマの影響を受けた人の支援者として関わっていると、我々支援者の側にも、怒りや無力感といった反応が起きます。支援に関わる中で、時に暴力的な関係性になってしまうこともあります。共感性の高い看護師が燃え尽きやすいというエビデンスもあり、医療者のバーンアウトはますます社会課題になってきています。トラウマティックな体験を聴いていると、共感疲労や代理トラウマが起きやすく、バーンアウトしやすいとも言われています。クライアントが怒っていたり、諦めていたり、希望を失っていたりしていて、そうした人と支援者として日夜関わっていると、支援する側の人も同じように怒り、諦め、希望を失ったり、過覚醒になったり、無力感に打ちひしがれてしまうことがあると言われています。また、いつのまにか、支援に関わる人だけではなく、その支援組織自体もまた、そういったような状態になってしまう。医療で言えば、救急医療の現場や集中治療室などがそうなりやすいと思いますが、支援する人や支援組織が過覚醒になったり、イライラしたり、逆に無力感に打ちひしがれてしまったりとか、本当は見るべき課題を見なくなって解離してしまう、というようなことが起こる。これを、トラウマのパラレルプロセス(parallel process)と言います。こうしたトラウマのパラレルプロセスが、ホームレス支援の現場などでも起こりやすいということを念頭に置いた上で、支援者や支援組織の側が、まずはそうした状態から回復していく必要があります。いわば、回復のパラレルプロセス(Parallel Process of Recovery)が必要です。支援者や支援組織が、トラウマに打ちひしがれた状態から回復していくことが、クライアントが回復していくことと密接に連動している。良かれと思って提供されている従来の支援のあり方によってトラウマの再体験を引き起こしてしまい、クライアントは当然傷つけれているし、支援する側も傷ついているという場合がある。こうした場合に、ハウジングファーストのような新しい支援のパラダイムを構築して、支援のあり方を変え、支援者や支援組織が力を取り戻していくことは、支援を受ける立場の人の回復といったりきたりしながら並行してすすんでいくものなのだと思います。当事者の声に耳を傾けないと、どのように支援のあり方を変えていく必要があるのかわからないので、共同創造が必要です。

 支援者や支援組織が、自分の置かれている抑圧された状況やトラウマについて、気付いて、回復していくということが、クライエントの回復とパラレルに起こっていく。これが、「支援者の当事者研究」が必要とされている背景なのかもしれません。

ホームレス状態からの回復

 どこに住むかが決まらないことには、その後の支援の方針が決まりません。住所がないと受けられない支援が多いことも問題です。ハウジングファースト、まずどこに住むか決めて、日中何をしたいのか、将来どうしたいのかということが支援の目安になってきます。

 あくまでも個人的な臨床感覚ですが、まずは安全な場所で身体を癒すことからはじめることが大事だと思います。トラウマの治療には、大きく分けると、ボトムアップの治療とトップダウンの治療があります。ボトムアップの治療は身体へのアプローチ、トップダウンの治療は言語によるアプローチです。今日は理学療法士さんもいらっしゃるので、言語的なセラピーではなく身体的なセラピーからはじめることに長けている方も多いかと思いますので、体感的に理解されやすいのではないかと思いますが。こういう出来事が起こって、こういう風に傷ついてきたんだけど、こういったことがあって少し良くなってきています、というように、ナラティブを再構成していくことなど、言語的アプローチはもちろんあるのですが、それよりも先に、身体へのアプローチを積み上げていくことが大切なのではないかと感じています。グラウンディング、地に足をつけることとか、自分が安心できる感覚をどこかにさがすとか、自律神経失調からのつながりとして生じてくる頭痛や肩こりなどの身体的な症状、まずは身体的な症状のままにケアして癒していくこと。そんなボトムアップの治療をする中で、安全な場を維持しながら、少しずつ言語的に過去を語ったり、自分のことや、他者との関係性に目を向けていくというような、順番が大切だと思っています。ハウジングファーストは、まずは安全な場を提供することからはじめましょうという治療感覚です。それから、住まいと支援を分離するというのは、支援者と強くつながることを強要しないという意味もあるのだろうと思います。誰かと強固なつながりを維持して生きていきましょうというのは、対人関係で傷ついてきた人にとってはしんどいので、あまり深くつながらなくてもいいよっていうところからはじめていくということが、ハウジングファーストがトラウマインフォームドな支援であると言える一つの理由かもしれません。

 特に女性で路上生活に至った方のライフストーリーを聴いている時などに多いのですが、ごそっと20年くらい時間軸が飛んで、ライフストーリーが空白になって、語られないことがあります。別の筋から得られた情報から、もの凄く語り難い暴力的な環境で生きていたことがわかったりすることもあります。そういう語り難いこと、語られない部分については、一旦は空白として置いておくことが大切なこともあると思います。空白は空白として置いておきながら、そこに語り難い空白があるということを認識しつつ、語れるところからライフストーリーを紡ぎ上げていく中で、これからどういう暮らしをしていこうか、それにあたってどんな支援が必要かということはみえてきます。そのうちに、unspeakableだった記憶を語ることができて、トラウマティックな記憶がナラティブな記憶に変換されて生きやすくなっていくということももちろん起こるし、そういうことには本人なりのペースがあるというスタンスで伴走していくことが、特に最初は必要なのではないかと感じています。

 過度に一般化された自伝的記録(Overgeneralized autobiographical memory : OGM)という概念があります。これは、「あの頃はとても辛かったのよ。」という一言だけで20年分のライフストーリーが空白になっていたりなど、とても辛い体験があったにも関わらず、一つ一つのエピソードレベルで語ることが難しい記憶のことを意味しています。OGMを具体的なエピソードレベルの語りとして語っていくことも大切な一方で、空白を空白として置いておくという感覚と同じで、OGMとしてしか語り得ないことを、ひとまずOGMとして語っておくということもまた大切だと思います。当事者研究では、具体的なエピソードのレベルで語るということを大切にしていると思うのですが、これはOGMを具体的なエピソードのレベルに戻して語りあげてから、もう一度抽象度をあげてパターンを見出していくという作業をすることが、癒しにつながるからなのではないかと思います。

 物語を複線化していくという感覚も大切ではないかと思います。私とあなたの間で語られる物語というのは、支援関係の中でだんだんと出来上がるとは思うんですけれど、その人が別の人に物語る時にはその物語は少し違うものになると思うんですね。一人の人と一つの物語しか語り合えないと、また暴力的な関係性の再体験がおこるリスクがある。つながりを増やして、二者関係に閉じないで関係性を開いていく、物語を複線化していくことで、再び失踪にいたりづらくなる。別の人に物語ることで物語が少しずつ改変されて複線化していくことを大事にすることも、トラウマの影響を受けた人が地域で暮らすことを支えていく上で大事なことなのではないかと感じます。

「療法士の当事者研究」に向けて

 村上春樹が2009年にエルサレム賞を受賞した時に、受賞スピーチで「壁と卵」という話をしました。「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるとすれば、私は常に卵の側に立つ。」というスピーチですね。壁はシステムのメタファー、卵は個人ですね。システムが個人を踏み潰してしまうことがある。壁としての対人支援のシステムが、卵としてのクライエントを潰してしまうことがあると思います。そして、壁としてのシステムが、卵としての対人支援の専門職を潰してしまうこともまたあると思います。そういうことに目を向けて、解明して、新しい物語を紡いでいくということが、「支援者の当事者研究」なのではないかと思います。

 療法士の当事者研究に向けて、事前に療法士の友達に色々聴いてみたところ、色々な困難があることが少しわかりました。職域によってやっていることや言っていることが違って、同じ療法士同士でも分かり合えないということをおっしゃっている人がいました。それから、「作業療法ってそもそも、暮らしの中で本人が必要な物を作るとか洗濯をするとか、そういった作業に重きを置いて営まれていたはずなのに、長期入院の病棟の中で病棟内の暮らしのQOLを上げるために、そして客単価を上げるために、延々とカラオケをしている」ということに疑問をかかえながら苦しんでいらっしゃることも知りました。地域生活の中で暮らす作業に着目するのが作業療法であったはずなのに、精神科病院に長期入院している人を対象として、診療報酬をあげるために作業療法が行われているという構造を認識するところからはじまるのだろうと思います。精神科病院の中でカラオケしていることは、本当に作業療法なのか?という問いですね。これは長期入院している患者との関係性の中では、支援者のマジョリティ性・搾取性を自覚しなければならない。一方で、病院の外側、地域の中で働く雇用が少ないという面では、療法士はマイノリティ性をもっていると言うこともできると思います。医師の指示の元、というような、他の職種との間でのパワーバランスも考えなければならないのだろうと思います。最近は変わってきているという声も聴けば、職場によっては医者に絶対に逆らえないという状況もあると思われます。それは医師である自分が、別の職種との関係性をみつめなおすためのカウンターパートとして、今日療法士の当事者研究の初回に呼ばれている意味と言えるのかもしれません。

 パウロ・フレイレという方が「被抑圧者の教育学」という有名な本を書いています。この人は、奴隷の状態にある人の識字の教育をしていた人で、教育思想家なんですね。講師が一方的に講義をする教育ではなくて、その人たちの目の前にある現実の切実な課題を自分で考えていけるようになるための識字の教育、そういったことをパウロ・フレイレは教育思想家として考えていました。それぞれが置かれている職場や状況など、被抑圧の状況は違うと思います。仕事とは関係なくマイノリティ性を持ち合わせていて、それと仕事のことが連関している人も当然いると思います。そういうことを、それぞれが一人一人言語化したり考えながら弱さを共有する、連帯する中で、一緒にできることも考えていくということが、支援者の当事者研究では必要なのかなと思いました。

 そんなようなことを考えながら、医療者の内なるスティグマというテーマからはじめて、ここまでお話させて頂きました。ちょうどいい時間ですので、一旦休憩しましょう。その後で、実際に当事者研究をやってみましょうか。

 ありがとうございました。

(編集:遠山友季)

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