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REPORT『研究会発起人 田島明子:療法士の当事者研究してみませんか?』(2020年3月16日 )

本レポートは『療法士の当事者研究「研究会vol.1」(2020.01.26)』の内容となっております。

はじめに

 2020年1月26日。長年、療法士が使用する「障害受容」の研究を行ってきた田島明子が発起人となり、「療法士の当事者研究」の研究会が発足しました。

 当日は、発起人の田島が「療法士の当事者研究」を立ち上げた経緯を説明し、特別講演として「当事者研究と専門知」(金剛出版)で「医療者の内なるスティグマ」を執筆された精神科医の熊倉陽介先生をお招きし、同テーマで最新の精神医療福祉領域の支援方法の紹介を交えながら、支援者が当事者研究をしていく上での課題点をご講演して頂きました。また、熊倉先生には当事者研究ワークシートを用いた参加者同士のワークショップのファシリテーターを行って頂きました。

 後半は参加者の方も交えて各々の研究テーマの発表と今後の「療法士の当事者研究」についてのフリーディスカッションを行いました。参加者の方の中には今回のテーマに沿って自身のスティグマを語った方々や、今後の「療法士の当事者研究」についても真摯で熱い意見をたくさん頂き実りある時間となりました。当日の雰囲気や今後の当研究会の方向性が分かるように一部を記事にして紹介いたします。

田島明子 趣旨説明

「療法士の当事者研究」してみませんか?

 療法士の当事者研究ということで、Twitterでつぶやいたんですね。「リハビリテーション当事者の当事者研究してみませんか?支援することの当事者研究って大事だと、なぜって支援は相互作用だから。支援の弊害は支援者側の、生(せい)、生きるってことが見過ごされていると思うのです」っていうふうに書きましたところ須藤先生と喜多先生が「やりましょうやりましょう」と乗ってくれました。

使われなくなる「障害受容」―自分なりの答えを見つけ出す療法士

 障害受容という言葉の療法士の使用の仕方に疑問を思って研究してきました。目の前にいる患者さんを客観主義的に距離を置いて捉えていて、「障害受容ができていない、困ります」と、個人モデル的だな、と思うんです。例えば、周りの環境に働きかけるとか、療法士側の障害に対する捉え方を再考するとかいろんなやり方があるんですが、「その人が変わらないと困る」という捉え方は専門職が優位の立場になっている。

 ただ、最近障害受容を使っているかを療法士に聞くと「使っていない」が圧倒的に多くて、それはなぜかというと「やっぱりその言葉って違和感を感じます」っておっしゃるんですよね。違和感って大事だなと思って。習得した専門知だって学校で教わって教科書的に学習するわけですけど、それに対して鵜呑みにしないで「なんかそれって変じゃない?」って思って考えて自分なりの答えを見つけ出している療法士がとても多いと気づかされました。

「医療者の内なるスティグマ」―共通言語を身に着ける中で当事者に暴力的になってしまうこと

 「当事者研究と専門知」の中に「医療者の内なるスティグマ」という熊倉先生の文章がありまして、それを読んで感銘を受けたんですね。うつ病の方の話を親身になって聞くんですよね、それをカンファレンスで報告すると他の医師から「それで?それで?」と問い詰められて炎上してしまう。熊倉先生は炎上しないために何を聞いたらいいかを気が付くんですね。うつ病の症状をもっとシステマチックに、執拗に患者から聞いていかなきゃいけない、そうするうちに炎上しなくなったと。ただ、その中で他の医師との共通言語を身に着けていて、結局は医療者としては患者さんに対して非常に暴力的になってしまって、患者さんの口は閉ざさせてしまうようなそういう作法ではなかったのかと書かれているんですね。障害受容ってまさにそんな感じかな、と思ったんです。

客観主義と主観主義―なかなかやり辛い質的研究

「作業療法の現代史」で学問の発展を調べたんですけど、その中で出てきたのが客観主義・主観主義で、医学モデルというのは明らかに客観主義的だと思うんですね。今、自己決定とか個人の主観的な満足感とかQOLというのが重視されていますよね。近年、医療とかリハビリテーションは客観主観両方の視点を持っていると言えると思うんです。だけれども、EBMとかNBMとか使われて、どういうふうに根拠を生み出していくかというのを考えたときに、どうしても客観主義的な根拠って一段優位に立っている現状はありますよね。どうしてもナラティブとか主観的な語りとかを根拠として採用するかというと、なかなかそういった状況になっていないと思うんですよね。それを証拠に質的な研究というのはなかなか学術誌の中でもやり辛かったりしていると思います。

「リハビリの夜」という当事者研究

「リハビリの夜」っていう熊谷晋一郎先生が書かれた本で、リハビリに当事者研究が大きく影響を与えた本としては、この本は存在が大きいなと思っています。この本の中で、身体にとっての物の意味ということを書かれていて、この物って言うのはトイレの便器なんですね。トレイナーという存在が自分に対して働きかけて、正常な身体機能を獲得させようとするけど、それでは全然一向自分の身体能力は上がらなかったけども、トイレの便座と自分の関係性というか、交渉していくなかで、自分の動き、正常の動きではなくて「私の動き」を発見できた、というのです。なので、自分は物との交渉から私の動きを立ち上げたいと書いてあって、これは色んな意味で衝撃でした。

この熊谷先生のお話は、客観性と主観性の往来、その真ん中あたりに位置しているという印象を持っています。「私の動き」は私にしかわからないと思うので、それはまさに「当事者知」ではないかと思うんですね。でも、客観的に判断すると例えば、トイレ動作の努力性とか効率性とかそういう話でセラピストがジャッジする。で、主観性だと「私トイレは楽に使えてます」とそういう話になると思うんですよね。

私たちの感覚を取り戻していく―当事者と私たちの関係性を作るために

社会学の野口裕二先生が医療コミュニケーションという話をしていらっしゃいます。野口先生は当事者研究と医療コミュニケーションということを文章化していて、当事者研究というのは、自分の身体について対象化されて客観視されて、自分の言葉を培えなかった当事者の人たちが、医療者に対して自分の平等性とか、あるいは、野口先生は民主化と言っていますけど、自分を取り戻すための言葉って、それを医療コミュニケーションは求めているということを書かれています。それで思ったのは、当事者のみなさんが医療コミュニケーションを求めてきている時代で、医療者自身がもう一方の当事者として、私たちは私たちの感覚を取り戻していく、これからそういった時代になっていくのではないか、と思ったわけです。

「療法士の当事者研究」をやっていく中で、対象者と私たちの健全な関係性が作られていくのではないかと思って始めたいと思いました。よろしくお願いします。趣旨説明でした。

熊倉先生の講演へ続く…

(編集:遠山友季)

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