見出し画像

他人が言いたいことは自分が言いたいことじゃないの巻

自分が言いたかったことが他人の表現にあったとして、かつての自分は「よく言ってくれた、俺が言いたかったことなんだよ」と、とても満足してそれを買い求めたり、「好き」と発言することで自分の欠けたパーツとして取り入れようとしてきました。
今ももちろんそういう表現を求めて、おそらく音楽を聴いたりお笑いを見たりしていると思うのですが、歳を食い、様々な人間の死や別れに触れ、自分自身の死が「やがて」「確実に」「時が背中を押して」「突然訪れる」ということを感じるようになってからというものの、『そういった表現があったとして、それは自分が言ったりやったりしないと意味がないのではないか』と思うようになってきております。一文が長い。

自分が好きなものを分かち合うことにあまり積極的になれないのは、自分という人間性がそれなりにイカレているということもありながら(ここ9割)、やはりこの、あるカルチャーを自分を構成するパーツとして取り入れることに、ぬぐえない違和感があったからではないかなあ、と最近思っております。あと照れとかあんでしょうね(0.9割)。

音楽に関するYouTubeのコメントを見て、歌詞にどのように共感して、揺さぶられて思わず自分の恋の思い出や親との死別を語っちゃいました、というようなのを見たときに、『それは自分の言葉で、自分のタイミングで話したほうがよいのでは…』とよく思います。背中をトントン叩いてもらって吐瀉するのと変わらないっていうか、涙や思い出の排せつ介助をされにいってるように見えてしまうわけです。
自分は涙もろく、涙の排せつが快楽であり、特に意味がないことをよくわかっているので、フジファブリックの若者のすべてを聴いて、シクシクと泣きに行くことがあります。部屋でひっそりと人妻寝取られエロ同人を見るのとあんま変わらん感覚です。

俺こそが一番、俺の一番シコれるツボを知っている、その表現を他人に任せて「素晴らしかった」「それが俺の気持ちなんだ」と掴まれることって、もしかしたらその表現の評価のモノサシとして、露わにすることはふさわしくないんじゃないでしょうか。
露わにすることが悪いと言っているのではなく、「自分が一番表現したかったツールを発見できずに今に至っている」ということの証左になんじゃないかと。多分僕が20なら「悪い」って言ってしまいそう。

だからこそ、言える、書ける、伝える相手がいる、壊せる、その力を練り上げることができる/できた、という人は、それだけでダイレクトに幸せなことですな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?