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嫉妬は罪

久々且つ過激な表現からのスタートです。

世の中、何を過激と感じるかは人それぞれですが、嫉妬を罪と断言されると強烈な抵抗感を感じる人も多いだろうことは私も知ってます。

なぜ此処で断言したのかと言えば、
バールーフ・スピノザがそのように述べているためです。
彼は17世紀オランダの哲学者で著作は「エチカ」が有名、理性に基づき倫理や神の存在について数学的アプローチで定理や証明を用いながらこれらを解き明かしていく大変面倒で読みにくい書籍に仕上がっています、私が昨今読んだ書籍のなかで一番時間を要しました。
そのエチカで、キリスト教による7つの大罪である嫉妬(Envy)はなぜ倫理的にいけないのかを丁寧に説明しています。

嫉妬は受動的な感情(「情念」)の一種であり、理性に基づかないため、人間の自由や幸福を妨げる要因となります。具体的には、嫉妬は他者が享受する善や幸福を見たときに、それを妨げたいと願う感情であり、他者の成功や利益が自分にとって不快であるという思いから生じます。この感情は、他者との比較や、自己の不満足から生じるため、理性的な理解や自己制御によって克服されるべきものとされます。
このようにスピノザは、人間が幸福を追求し、より自由になるためには、理性を働かせてこうした情念を超越し、真の理解と共感によって他者を喜び、協力して生きることが重要だと考えています。

また、「人は考える葦」このように説いたフランスの哲学者で、
ブレーズ・パスカルは、自然界における人間の弱さを「葦」に例えましたが、人間には「考える力」があり、その点で他の生物と区別されると主張しました。つまり、物理的には弱い存在であっても、知性と理性を持つことが人間の本質であるとしています。

つまり、人には考える力や理性が備わっているのに自己制御しなければならない自身の理性という箍が外れる行為である嫉妬をしてしまうのは幸福や自由の妨げになり、他者への理解や共感を自ら遠ざけている行為であるために嫉妬は罪であると宗教の教えになっている説明しているのです。

嫉妬の感情は誰しも発してしまうことがありますが、それは嫉妬した自分を認めたくない、嫉妬に繋がる比較や自己卑下を認めたくない心情を嫉妬という感情で済ませてしまおうと、それがいっときの安らぎにしかならなくとも自分を怒り狂わせた他者が悪いのであるとしてしまう行為である以上、それは根本的・根幹的な根治はできないし、いっときの安らぎは当然持続性が低くいつまで経っても解決できないことに苛立ち、また嫉妬のループを繰り広げ嫉妬のキッカケになった対象者を駆逐するまで継続してしまう。
だが、当初発生した自身の感情である比較する心と自己卑下を認められない、つまりは負けを認めたくないその心と向き合っていないので決して根治することはない、心の奥底にずっとその解決しない感情を残したまま、自己正当化し続けるからその否定は過激に応じるしどこまでも逃げ続ける、、。

今回、ここでは解決法を直接は述べません。

感情の整理は誰しも自分で済ますものですからね、
しかし、嫉妬の感情から何か攻撃を他者に対して行ったのならそれが実現できていませんよね。

ここまでで気づかれた方はいると思います。
もし、そうじゃない、嫉妬させたヤツが悪いし、自分のほうが優れている
そのように思うのであればいつまでも他者を傷つけ続けることでしょう。

今日はここまで、
あまり押しつけのような記事にはしたくないので強調も一カ所だけにします

最後までお読みいただきありがとうございました。

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