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【東京ノスタルジー②】上野

 正式に言うと上野は台東区の町名なのですが、上野駅の周辺一帯を通称上野と呼んでいます。上野は東京の北の玄関口として東日本からの人々を迎えてきました。私も幼少期に初めて東京を訪れたのは、上野への夜行列車だったと記憶しています。当時都会への集団就職の若者が沢山同乗しておりました。めっちゃ昭和だぁ。
 上野駅は1883年、日本鉄道上野ー熊谷間の駅として開業します。2年後に本駅舎が竣工するのですが、これは関東大震災で焼失してしまい、現在の駅舎は1932年に再建されたものです。それでも92年前だぁ。新幹線が東京発着になり地方からの玄関口の役割は少なくなりましたが、重要なターミナル駅です。

 上野といえば上野恩賜公園ですが、1月16日の日記に書いております。是非ご覧いただければ幸いです。

 前回書いてないのが上野公園を襲った2度の悲劇についてです。

 1923年(大正12年)9月1日11時58分 関東大震災発生
 推定M8前後 死者・行方不明者10万5千人
 当時台風の影響で風が強く、昼時であったため火災が各地で発生
 当時の写真を見ると、上野公園は火災を逃れて来た人々でびっしり溢れかえっています。一晩で70人の子供が公園で生まれたという記録も残っています。公園の正面の日活、帝国博品館、松坂屋などは焼失しているため、この公園は多くの命を救ったと思われます。多くの人が亡くなったことも事実です。

 1944~45年 第二次大戦末期の米国による東京への爆撃
 特に3月10日の夜間空襲では一夜で10万人近くが死亡しました。
東京への空襲の激しさについて様々な記録が残っていますが、悲惨極まりない内容のものばかりです。
 3月10日だけで、300機を超えるB29戦闘機が1700トンの焼夷弾を東京の下町に投下しました。隅田川や上野公園には逃げ惑う人々が殺到・・・。公園には多くの遺体が運び込まれたようです。

 今は上野に行って、アメ横でいろいろ物色し、御徒町や広小路でご飯を食べて、上野公園で博物館や美術館を見たり、ぶらぶらお散歩をするのが大好きです。
 でも公園で亡くなった方々に手を合わせることは忘れません。

【REG's Diary   たぶれ落窪草紙  4月3日(水)】

 




 
 


 

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