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【上野恩賜公園】都民の憩いの場所は悲しみの舞台でもあったのか・・・①

 東京上野にある巨大な公園は正式名称を「上野恩賜(おんし)公園」と言う。広さは約53ヘクタール、周囲は約15km、定番の東京ドーム基準だと11個分らしい。明治6年に明治維新政府の法令により指定された日本初の公園のひとつである。上野の台地の上にあり、上野の山、上野の森とも呼ばれる。美術館、博物館、動物園、不忍池など様々な文化施設があり、春の桜の名所としても名高い。
 「恩賜」とは天皇や君主から物を賜ることやその物を意味する。実際に上野公園は宮内省管轄の皇室の御料地を東京(当時はまだ東京都ではない)へ下賜(かし)されて整備された公園である。

 この場所には江戸時代、江戸城の鬼門を守る東叡山寛永寺が存在していた。平安時代より京都御所の鬼門を守る比叡山延暦寺は、創建時の年号をとって延暦寺と名付けられたが、それに因んで東の比叡山「東叡山」、創建時の年号より「寛永寺」と命名された。
 
 寛永寺は寛永二年(1625年)に、徳川家康、秀忠、家光の三人の将軍に帰依した小栗旬、いや天海大僧正によって創建される。(すみません、どうする家康最終回の天海がどうも・・・)芝の増上寺と並び徳川将軍家の江戸に於ける菩提寺となる。現在も寛永寺は上野公園の近くに存在するが、敷地は全盛期の十分の一以下になってしまった。寛永寺のサイトによると、現在の上野公園の中央にある噴水広場あたりには、壮大な寛永寺の根本中堂があり、国立博物館あたりには寛永寺本堂と美しい庭園があったようだ。周辺には清水観音堂、不忍池弁天堂、五重塔、開山堂、大仏殿など、かつての境内の大部分は上野公園になっている。

 上野は幕末に新政府軍と旧幕府軍の戊辰戦争のひとつである上野戦争の舞台となってしまう。寛永寺には徳川最後の将軍慶喜が謹慎していたり、最後まで抵抗を続けた彰義隊の本部があった。上野戦争は一日で終結、彰義隊はほぼ全滅する。この戦争により寛永寺は多くの伽藍を失い、広大な境内は明治政府に没収される。

 後に上野には平和を象徴する巨大な公園ができて、寛永寺も再建を認められる。めでたし・・・とはいかない。これから関東大震災、東京大空襲では上野は再び死体の山となるが、それはまた。
【REG's Diary  たぶれ落窪草紙    1月16日(火)】

 

 

 





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