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《ホモ・プレカリアス》のひみつの集会 セルフレポート vol.3  —「アヤしい集会」の模型

こんにちは。REFUGIAの久野です。

ここまで2回にわたって公開してきた「《ホモ・プレカリアス》のひみつの集会」のセルフレポート。

最終回の3回目となる今回は、「集会」の着想につながる時代の空気と、「集会」がもつ意味合いという視点から振り返ったうえで、今後の展望について考えたいと思います。


※過去2回の記事はこちら▼から。

「モキュメンタリー」の流行と時代の空気

フィクションをドキュメンタリーのように見せる「モキュメンタリー」という手法。具体的には、東京テレビの大森時生さんが手がける番組「Aマッソのがんばれ奥様ッソ」や、「SIX HACK」、YouTubeチャンネル「フェイクドキュメンタリー『Q』」などが、SNSで話題に挙がっているのを頻繁に見かけます。

こうした虚実が入り混じる演出手法が流行する背景には、今の時代ならではの「空気」が影響しているように感じます。

キーワードになるのは、トランプ大統領が出てきた頃によく耳にした「ポスト・トゥルース」ではないでしょうか。コトバンクでは、「ポスト・トゥルース」は「世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況」と説明されています。

また、SNSの普及により、メディアの発信者と受信者の境界が曖昧になったことも影響しているでしょう。以前はある程度、発信者側にあった権威が失われ、真偽不明な情報が氾濫するような状況になりました。

その結果として、我々は不安な状況にさらされています。この不安とうまく距離をとるために、この状況自体をコンテンツにすることで楽しもう、という狙いが、つくり手と見る側の双方にあるからこそ、「モキュメンタリー」的な演出が、今好まれているように思います。

そして今回の「集会」の狙いにも共通する部分がありました。

「集会型演劇」のために

演劇はそもそも、この「虚実が入り混じる」という構造を、元から持っています。観客の目の前にいる俳優は、「その人自身」であると同時に、フィクショナルな「役」を演じます。

映像表現との大きな違いが、ここにあるように思います。映像は、それだけで成立します。データはデータとして存在する。作品として世界から独立することができる表現だと思います。虚構としての強度が強い。だからこそ、「現実」っぽさを意識した演出を加えることで、そこに亀裂を入れようとする動きが出てくるのではないでしょうか。

一方で、演劇は、演者と観客がともにいて、イメージが共有されることで初めて作品として成立します。演者と観客の「間」で共有されるものを、演劇と呼んでいる、と言いかえてもいいかもしれません。

だからこそ、観客が傍若無人に振る舞えば、(極端な話、舞台上に上がってひっちゃかめっちゃかに荒らし回ってしまっては、)演劇作品のフィクションは成り立ちません。その意味で、虚構としての強度が弱い。そのため、観客を客席に縛りつけることで、虚構を守ろうとするのだと思います。「劇場型」の演劇は、作品を成立させるために、客席に観客を「排除」している、と言えるでしょう。

舞台と客席の境界を取り払い、観客の参加を要求する「イマーシブシアター」は、この形式へのカウンターとして出てきている部分があると思います。とはいえ前回の記事でも書いたように、この形式は観客を、「レジャー体験の受容者」「サービスの消費者」といった役割に押し込めてしまうものが多いように感じます。テーマパークに近いあり方という意味で、ここでは「テーマパーク型演劇」と呼びたいと思います。

そこで、劇場型演劇(≒小劇場演劇)でもなく、テーマパーク型演劇(≒イマーシブシアター)でもない形式を、今回の「集会型演劇」では目指しました。来場者を「観客」や「来場客」、制作者を「演者」や「キャスト」という役割に閉じ込めるのではなく、その間を揺らぐ存在として宙吊りのまま扱うこと。

もちろん、役割の境界が全くないわけではありません。架空の設定をつくる側、つくられる側という意味で、どうしても境は生じてしまいますが、上演の場ではその設定にノるか、反るか(?)のせめぎ合いを遊ぶことができないだろうか、と試行錯誤しました。

現実の「模型」としての演劇

この「集会型演劇」の形式を通じて私が目指したこと/目指したけれどできなかったことを言語化するにあたり、最近出会った書籍『失われたモノを求めて』(池田剛介著/夕書房)がヒントを与えてくださりました。

本書の中で著者は、千円札を模した赤瀬川原平氏の作品に触れながら、下記のように論じています。

偽物が、その「独裁体制」をめぐって本物と敵対関係にあるのに対し、「模型とは、最初から本物とは異なる顔をもち、本物に対比して置かれる」であり、本物と偽物の双方から距離を取り、両者の対立を観察しながら、千円札のもつフィクション性を知覚可能にしてみせる装置と言えるだろう。

池田剛介『失われたモノを求めて』(夕書房)p51

本物でも偽物でもない、「模型」。

前々回の記事で書いた通り、私が脱出ゲームの帰りに誘われた「交流会」は、実際にはマルチの交流会という「偽物」でした。

今回私が作ろうとしていたのは、本物の集会でもなければ、偽物の集会でもない、集会の「模型」だったのかもしれません。もっともらしい現実とも胡散臭い現実とも距離をとりながら、現実のもつフィクション性を知覚可能にしてみせる装置としての「集会」。

今回の集会がどこまでうまくいったかはわかりませんが、この方向性の先に何かがあるような、手応えを感じました。

しばらくは、「アヤしい集会」の模型(≒集会型演劇?フェイク・ワークショップ?モック・シアター?セミ・フィクションの演劇?)をいくつか作っていこうと思います。



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