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100人いれば100通りの正解


奈良の大和郡山市にある素敵な本屋さん
とほんさんの栞展に参加している。

2/3-2/26 木曜日定休

せっかくなので作品の裏話をしようと思い!

「100人いれば100通りの正解」


私は読んだ本の内容をほとんど覚えていない。
多分そういう読み方をしていない。

私は(もうご存知の方も多いと思うが)文学部日本語日本文学科を卒業している。
ゼミは近代文学。

文学部に来た理由は、(いろいろ割愛して結論だけ言うと)国語の先生になりたかったから。
国語の先生になるのを辞めた理由は、物語に答えなんかないことを知ったから。

文学研究に触れるまで、私は文学にも正解があると思っていた。

筆者の意図はなんでしょう?
傍線部の田中さんの気持ちを答えなさい。

そんなん知るか!と今なら思う。

国語教育におけるテストは、出題者の意図を汲み取る問題なんだと今は思う。
でも学生時代にそんなこと考えないじゃない!!
活字離れ活字離れ言ってるけど、そりゃおもしろくなくなっちゃうよな、自由に読めないもん。
それは間違ってます!なんて×つけられちゃうと、本って難しいな、私には向いてないなって思っちゃう。

だから、国語の先生になるのは辞めた。
100人いれば100通りの正解があっていい。
自由に解釈して勝手に救われたっていいじゃないか。
そう思う。


さて、本の読み方の話。

とある人とおすすめの本について話していた。

その時に「𓏸𓏸はこれからどうなるの!!!ってところで話が終わるから嫌い」と言われてはじめて気づいた。
私は好きな小説の結末を全くと言っていいほど覚えていない!

この一文が、この部分が刺さったっていうのと、全体の雰囲気みたいなものは覚えているのだけど、話の流れとか結末とかはあんまり覚えてない。

多分、読み方がちがうのだと思う。

全部を理解しようとしなくていいし、理解出来るはずもないと思ってる。
私は羅列された言葉の中からふいに飛び込んでくる言葉たちを読んでいる。
出てくる表現に感動したり救われたりしている。
今日刺さる言葉と明日刺さる言葉は多分ちがう。
だから同じ本を何回読んでも楽しい。

昔この曲刺さらんかったけど、今日聴いてみたらめちゃくちゃよかった。そんな感じ。
音楽を聴くように本を読んでいる。だから私は結末を覚えていない。

本当に内容が好きで読んでいる人からしたら、なんじゃそりゃって思われそう。
でも私はそういう読み方しかできない。
100人いれば100通りの読み方があったっていい。


なんか生きてたら(急に大きく出たね〜)
あたかも最初から正解があるみたいに言われることがある。
最初からレールがあるみたいに言われることがある。

そんなわけあるか!!!っていつも思っちゃう。

そもそも同じレールを走ってる人間なんてひとりもいないと思う。
みんなちがう環境で産まれて、ちがう環境で育ってる時点でひとりひとりちがうレールの上にいると思う。

真似したら成功する?言うこと聞かないと失敗する?
それはあくまであなたの話でしょう?
同じ方法で成功することがあれば失敗することだってあるはず。
そもそもちがうレールにいるのだから誰に追い越されることも追いつかれることもないんです。

それなのに、なぜか人と比べてしまったりする。
仕方ないね〜私ってやつは!めんどくさいんだから!

はみ出したっていいや。
100人いれば100通りの正解があっていいじゃない。

私もあなたもみんな間違ってる。
凄そうに見えるその人も同じ人間です。
自分の物語くらいどう解釈したっていいじゃん。
どんな読み方しても正解です!


歪だって構わない。わたしにはわたしの物語。

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