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「8歳で80年生きた天使」プロジェリア症候群の娘と生きた8年

りさ誕生

1993年6月23日午前2時11分、娘「りさ」は大きな産声と共に生まれてきてくれました。
予定日は7月中旬でしたが、4月下旬より切迫早産のために入院をしていてそのまま正期産より5日早い早産となりました。
36週にしては小さな赤ちゃんで、体重2.160グラム、身長41センチで、目のパッチリとした女の子でした。
当時の育児日記には、「出産後に胎盤がなかなか出なくてとても苦しい思いをしたけど、元気に泣いてるりさを見たら痛みなんてなんのその!」と書いてあります。この時は、まさかこの子とたった8年でお別れしなくてはならないなんて夢にも思わず、ママになれた幸せを噛み締めていました。
2.500グラムを超えるまで保育器の中でりさは育っていたので、私が一足先に退院となりました。
そして、母乳を飲ませるために病院に半月くらい毎日通いました。
先生には「ミルクの飲みも良いし、問題ないから大丈夫ですよ」と言われ、とても安心して、幸せで穏やかな日々を送っていました。
しかし、お気に入りのベビー服、育児用品を揃えて何の心配もなく過ごせていたのはこの頃だけとなったのです。


りさとの生活が始まる

1993年7月17日、体重が2.660グラムになってりさも退院する日がやってきました。
初めての育児でわからないことだらけです。
実家に里帰りさせてもらい、家族に助けられながら、りさとの生活が始まりました。
そして、退院して一週間が経ち、保健師さんが訪問してくださった時のことです。

「りさちゃん、泣くと顔色が悪くなるな…
 皮膚も硬い気がする…
 気になるから一度病院に行ってみてください」と言われました。

居ても立っても居られなくなり、翌日、家から車で40分程の大学病院の分院を受診しました。
小さな腕に針を刺して血液検査、レントゲン、りさの泣き叫ぶ声を聞いて、私は「りさ、ごめんね…」と言いながら泣くことしかできませんでした。
そして先生に呼ばれると…「まだ詳しいことはわかりませんが、精密検査が必要だと思うので、入院を早々にしてください」と言われました。
しかし私はすぐに受け止めきれず、「今日は一旦、帰らせてください」と言ってりさと帰宅しました。
でも、心の中では、最近ミルクを多く吐くようになったり、体重が増えなくなっている現実、そして私から見ても皮膚が赤ちゃんなのに何か硬い気がすることが大きな不安となっていました。
なので私は「今夜、またミルクをたくさん吐いたら、りさを産んだ病院の先生に相談しに行こう」と決めて寝ました。
するとやはり夜中の授乳時に、かなり多くのミルク吐いてしまったのです。
赤ちゃんはミルクを確かに吐きやすいですが、もうそのレベルを超えていました。
私は怖くなって「明日、病院に相談に行こう」と決心して眠れない不安な夜を過ごしたのです。


国立小児病院(現・国立成育医療研究センター)へ入院

翌日、私はりさを産んだ病院の先生に相談に行き、今までの経緯を話しました。
すると、「国立小児病院」の先生を紹介するので、遠いですが受診してくださいとのことになりました。
そして1993年8月16日、小さなりさを連れて東京世田谷にある「国立小児病院」を受診したのです。
前日の8月15日は花火大会で、花火の音や道行く人の楽しそうな声が聞こえてとても辛かったことを覚えています。
「どうしてりさがこんな事になってしまうの…私は普通のお母さんになりたいだけなのに…」と、泣きじゃくって言ったことも忘れられません。
国立小児病院を受診すると、「お母さん、この子は呼吸数が多すぎます。酸素を使ってあげたほうが良い状態です。そして、やはり皮膚も硬いです。詳しい検査が必要なので今から入院の手続きをして5階の病棟に上がってください。病棟の医師から詳しいご説明をします」と言われて…
 私は、椅子から立ち上がることも出来ないほどになり、ただ呆然として流れる涙を拭うことすら出来ませんでした。
この日から、りさの病気と向き合う現実と長い入院生活が始まったのです。

次回に続きます。








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