軸は2本よりも多くある
noteの世界には優しい方が多いと感じている。これまで何度も心のピンチを救って頂いた。感謝の言葉が足りない程に。
同じように感じているnoterさんもいらっしゃると思う。
noteではそれぞれが詩や小説のような素敵な創作、思わず見入ってしまう写真や絵、自分の経験や思うことやこれからこんなことをしてみたいと言うようなエッセイやコラムを記事にして発信している。
もちろん自分もその中の一人。
お互いがお互いのnoteを読んで、見て、何かを感じて心が満たされていく。
noteに共感して時に笑ったり、嬉しくなったり、涙を流したり。
時が経つのを忘れてしまいそうになる。
いいね、note。
そんなnoteでよく見かける「自分軸」と「他人軸」という言葉。
自分軸をうまくコントロールして、良い意味で自分の思うように生きていければいいのだけれど、思いがけず他人軸の影響を受け、自分の心に蓋をしてしまう。
自分の意見を押し通すことが本当に正しいのか、誰かに不快に思われてしまうのではないか、嫌われてしまう、居場所がなくなってしまうのではないか。
そんなことを気にしてしまう。
結果、誰かに振り回されて疲れ切ってしまい、自分を見失いそうになることがあるということをよく目にする。
よく分かる。
何故なら自分もそんな傾向があるから。
もっと楽に生きられたら。
そんなことをこうした記事を拝読する度に思う。
うんうん、そうなんです。
でもなかなか上手くいかないのですよ。
他人軸で生きているから人に合わせることで自分が疲れてしまう。
自分軸を中心にして生きることが上手くできないから。
物事には対になる言葉、相反する言葉がある。
善と悪、生と死、光と影、白と黒。
他にも対になる言葉はいっぱいある。
で、思う。
「自分」に対になるものって「他人」?
これしかないのだろうか。
思うように生きることができなくて藻掻いている自分と他人は相反するものではあるけれども、本当に自分と他人の2つに分けることが正解なんだろうか。
例えば、自分の周りの人で考える。
家族、親戚、学校や職場の人、趣味が同じ人、ご近所さん、など。
みんな同じ「他人」なのかな。
家族とご近所さんって同じ距離感?
友達や同僚でも仲の良い人もいればそんなにでもない人もいる。
もっと言えば近くにいて欲しくない、距離を遠ざけたい人もいる。
こんなことを考えると自分と他人の2つだけに分けるのは無理があるのでは、なんて思ってみたりして。
自分がいて、その周りにたくさんの他人がいて。
他人の中でも
好意的な人>適度な距離感の人>苦手な人>関わって欲しくない人>知らない人
すごくザックリだけどこんな感じにカテゴライズ出来そう。
全ての他人(他人軸)に合わせる、もっと言うと振り回されるのは無理がある。これはキツイ。
疲れる。
疲れ切ってしまう。
あー、もう無理。
せめて好意的、友好的な関係の人の「他人軸」に時々合わせる位にしておかないと自分軸で回るなんて出来ない。
自分中心で考える、行動するなんてことはできないのではないかと。
自分の軸を回すのだけでも苦労しているのだから、他人様の軸をいくつも回すのはもっと大変。
ある種の割り切りは必要なんだと。
(それが上手く出来ないから苦労するんだけど、意識してみる、それを知っているだけでも違うんじゃないかな)
楽をする、手を抜くのとは違う。
自分らしく有る為に、無理をしない、背伸びをし過ぎないように。
万人に、なんて理想を追わない。
自分に出来る範囲で、粛々と。
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