見出し画像

『もう、手は洗わない』

道に転がるゴミを拾って歩き

風で将棋倒しになった自転車の列を一台ずつ立てて歩き


誰も通らない道の信号機も

青になるまできちんと待っていたあの頃


わたしは

何度も何度も何度も何度も手を洗っていた

生きるのが苦しかった


人にはみんな裏があるような気がして

せめて自分は

きちんと正しく生きようと決めて


何度も何度も何度も何度も

手を洗って


汚れないように

穢れないように

染まらないように


バスに乗って座っていても

きちんと足を揃えて

広がらないように

乱れないように

迷惑をかけないように


身体中に力が入って

ちっとも楽じゃなかった


何度も何度も何度も何度も

手を洗って

きちんと正しく胸を張って


生きるのが

苦しかった


そんなわたしは故郷の5月が好きで


早くやって来る梅雨の合間

雨上がりの真っ青な空に映える真っ赤な梯梧の花に心震わせ

生きている、 と感じるのだった


自分にも裏があると

分かってしまった今では


踏んづけて初めて道端のゴミに気づき

倒れた自転車の行列を横目にしながら進み

小さな信号機の赤を誰も見ていなければ平気で渡ってしまう


そんな大人になってしまった


人に裏があるのは

今に始まった事でもないし


世間は罵声が飛び交い

頭上には渋滞のマイカーが吐き出す排気ガスでくすんだ空が広がっている


洗わなくなった手は

重ねた月日が灰色の皺と共に

すっかり汚してしまった


現在(今)は一体

何を見て

心を震わせるのだろう?


汚れた手を

汚れた空にかざしてみた


灰色の雲の隙間に

微かに青空が見えて

はっと息を飲んだ


微かだからこその輝き

汚れた空だからこそ浮き上がる


生きながら

揉まれながら

汚れながら


その中にも

その中にこそ

本物の美が

隠れているのかもしれない


そして気づいた


いつも何故か悲しいのは

わたしはまだ諦めきれずにいるから


自分を

世界を


汚れながら

穢れながらも

生きていればこそ


心は

震えるのだ


だから今も

心震える瞬間を


本物の青に出会える瞬間を


そっとずっと

待っている



2017年 10月 作成。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?