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『 温かい時 』


女は詩人であった


唯一の後悔は

詩を

一篇も書かなかったこと


口癖は

「まだ、時じゃない」


言葉は急ぎすぎたらいけないの

温まらないうちに取り出してしまうのは罪よ


若葉の頃

雨傘の下で初めて聞いた 愛の言葉も


母を残して飛び乗った電車の 悲しく響く発車ベルも


西陽の入る部屋の窓辺で揺れる 彼の買ってくれた一輪の薔薇も


人差し指をそっと握ってくる お乳の匂いのするわが子の丸い手も


いくつもいくつも

彼女の心を揺さぶったのに


こみ上げては消える言葉たちを見送って


いくつもの “時”  を逃しながら


彼女の物語は終わった


本当は

怖かったのね?

出てきた言葉がつまらなかったらどうしようと?


つまらなかったら

育ててあげればよかったのに


旅立った筈の女の頬を

一筋の涙がつたった



つまらなくても

愛してあげればよかったのに

いえ、

わたしが愛してあげたのに


女は

再び涙を流した


そこに

美しい一篇の詩を見つけて


女の涙を拭った娘の手は

もう乳飲み子のそれではなく

大きく柔らかく

温かいと


最初で最後の

”  時  ”

を感じながら



2020年 5月 作成。

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