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人生と画角

自身が本格的に写真を始めたころ。 
カメラは一眼レフ一台と35mmレンズ一本のみ。 
 
カメラ雑誌では様々なレンズの広告があふれかえってはいたが当時の自身には高嶺の花。 
あこがれつつも「絶対にかなわないゆめは遠い海外の町と同じくらい」に
手が届かない。 
 
そこで、カメラ入門書に示唆される「レンズ別画角の特徴」を穴が開くほど読み、 
視野が広すぎると感じれば一歩、二歩前に出て。 
狭すぎると感じれば、後ろに下がり。 
色々なことを試行錯誤しながら被写体を切り取っていた。
今思えばレンズの画角のみに注視し、レンズごとのパースを活かしていない
方法であった。が、当時の自分には満足した撮影生活。 
 
当時、ズームレンズは発売されていたが実用には疑問が残る描写力であり、 
撮影場所が限られる報道系の職業カメラマンが徹頭徹尾テスト撮影を重ね特性を熟知してある意味割り切って使用する程度であった。 

アルバイトを重ね、少し財布が暖まり始めたころ、
二本目に選択したレンズは21mm。 

現代の超広角レンズはフランスのアンジェニー社が開発した
「レトロフォーカス=逆望遠型仕様」であるが選んだレンズは
対象型で一眼レフに取り付ける際は「ミラーアップ」が必要になる。
撮影視野は外付けのファインダーで確認するが若き日の自身は画角を
手中に収める訓練を重ね「ノーファインダー」で街角を切り取っていた。 
 
このレンズはもともと名声を博していたレンジファインダー用レンズを
一眼レフ向けに転用した逸品であるので、超広角でありながら
「像面がフラットで尚且つ歪まない」銘レンズであった。
 
当該のレンズは多くのプロに使用され数々の名作を生みだしたが
我々の年代にとって思いで深いのは東京下町 
「三ノ輪の下駄屋の倅さんが」自費出版で発売した新妻さんとの
新婚旅行を記録した作品である。 
 
一方の自分は、超広角レンズを携え、ノーファインダーでのスナップ撮影。 
また、当時は日本中の山を彷徨っていたので三脚に固定して構図を考慮した山岳写真。 手前味噌ながらそれなりの作品を発表していた。 
 
 気楽な学生時代を終え、宮仕えの身となりつつも通勤カバンにはいつもカメラを忍ばせていた。 
社会人という多忙な日々を送りながらも学生時代から「人生の伴侶」と
決めていた女性と生活を営み始める。 
やがて、二人だけの生活に「新しい命を天から授かる」 
悪友たちには「親バカ」と散々揶揄されたがまさに
「天使が舞い降りたのである」 
自身も30代。 
天使の成長を記録する生活に超広角レンズの視野は広すぎると
おもい、標準レンズでは狭すぎると感じていた。 
そこで再登場したのは古の「35mm」である。 

二人目の「天使」も授かり彼女たちの日常、
人生唯一の伴侶が母親として成長する過程を記録していった。 
このレンズは使い過ぎた結果「ヘリコイドが抜けスカスカになり」数度のオーバーホールを繰り返した 

家族の記録には35㎜レンズ一本では不自由も感じていた。
ズームレンズも十分に被写体の再現に耐えうる製品が出回っていたので
積極的に活用し始め、ハレの日はもちろん、何気ない日常を記録した。
結果、現在。我が荒屋のリビングには数十冊のアルバムが鎮座している。

宮仕えも長くなり娘たちも独立を迎えるころ、カメラは一眼レスから
レンジファインダーが主体となる。通勤カバンにカメラを忍ばせる生活は相変わらずである。
レンジファインダー機では一眼レフで慣れ親しんだズームレンズを使えるわけもなく、
必然一本のレンズを付けっぱなしにするスタイルが定着する。
さて、この一本の選択である。

「鮒に始まり鮒に終わる」のが釣りの王道であれば、
チョイスしたレンズは
「写真は標準に始まり標準に終わる」の名言通り「50㎜」である。

機材庫を覗けば長年の間にたまった、、、、のように
50㎜にもメーカー・明るさ別に数多。
レンジファインダー機のユニバーサルマウントの利点を生かし
舶来の高級品から、世界で一番明るいといわれたメーカーを筆頭に
国産メーカー各種、共産圏の一本までその日の気分でチョイスしていた。
 
現役を引退した今現在、愛用する一台は、昭和一桁台に制作されその数年後当時の最新機構にメーカーで改造されたカメラと、決して明るいとは言えないレンズとなった。
その旧く小型な寫眞気を「お散歩カメラ」よろしく首から下げ「コトリ々」とシャッターを切っている。

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