フェミニストと鈍行各駅停車の例え

 何処かで読んだ、共産主義だか、左翼の話だ。

「60年前、社会制度が不十分だった頃、理想へ向かって猛進する必要があった。」
「しかし、現在は既に社会制度は充実し、理想へだいぶ近づいている。それなのに、60年前と同じ勢いで行くのはよろしく無い。」
『旅では新幹線で一気に近づいた後、各駅停車で目的地へと向かう。同じように、目的地へと近づいた我々は各駅停車の如く、少しづつ丁寧に社会を動かすべきだ。』

 だいたい、こんな話だったと思う。何処で読んだか、本だったのかネットの記事だったかさえ覚えていないが、非常に興味深く記憶に刻み込まれた話だ。


 さて、Twitterではフェミニスト議院連名の話題で沸いている。性的であるとして抗議を行った彼女らは、結果として女性の社会進出の芽を奪う結果となっているのだが、本来フェミニストとは女性の社会進出を目指すものでは無かったのか?

 かつては女性に参政権は無く、仕事の機会も男性に比べて不平等であった。セクハラは見逃され、自己の自由な表現も憚られた。
 しかし、現在は参政権があり、雇用機会の均等化が進み、セクハラは罪となり、女性だからと自由な表現への蔑視も薄らぎ始めた。
 だが、フェミニストは未だかつてのままだ。既に男女平等の目的地は鈍行で数駅、新幹線では目的地を過ぎてしまう。だが、彼ら/彼女らは未だ新幹線に乗り続けている。今必要なのは各駅停車の、必要な分だけ理想へと向かう穏やかな行動ではないだろうか。


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